蕎麦切り発祥の地を歩こう!
ここのところ「え?マチコレってニュースコムで発行しているの?」と言われることが数回ありました。(^_^;)
新聞と一緒に届くので、山梨日日新聞社が制作していると思うのも無理はありません。しかし、マチコレは山梨日日新聞を販売している「ニュースコム」という新聞販売店が、「地域の皆様のお役に立ちたい」という気持ちを込めて制作しております。(^_^)
スタッフ一同、このコーナーのように体を張って頑張っているのですよ~!!・・・・体を張っている割に、私のメタボは一向に解消されませんが。(^_^;)
さて!今回は「蕎麦切り発祥の地」である甲州市大和町をメタボウォーキングです!!\(^O^)/
スタートは甲斐大和駅です。
おや?駅前に何やら銅像がありますよ??
こ・・これは!!武田勝頼公の銅像では!!な~んて。
ここ大和町は武田家最後の地として有名ですよね。(^_^)
古部の集落を通り、西光寺を過ぎ、大菩薩初鹿野線を上ります。
松智院を過ぎると、なが~い「筒」が山頂から下ってきているのに気づきました。
どうやら東京電力の施設のようですね。水力発電に必要な水を通しているようですが、当たり前のように使っている電気や水も、このような施設があるからこそなのですよね。それにしても長いなぁ・・・。
さて、四郎作古戦場跡、鳥居畑古戦場跡を過ぎると景徳院に到着です。
こちらは武田勝頼を討った徳川家康が、一族の冥福を祈るために建立したお寺で、境内には勝頼夫妻と子息信勝及び家臣の墓があります。
勝頼は徳川連合軍にこの地まで追いつめられ、家臣と共に自害をして武田家の歴史に幕を下ろす訳ですが、四郎作古戦場跡や鳥居畑古戦場跡を含め、かなり具体的にその時の模様が伝わっている事に驚きました。
首洗い池は少々怖かったです・・・夜中に一人じゃ絶対に来れません!!(T_T)
景徳院を出て、県道をひたすら上ります。
大和自然学校や福祉センターを過ぎると竜門橋が現れます。
橋を渡ると竜門峡遊歩道の入口に到着です。
遊歩道を少し進むと、素晴らしい自然が目の前に広がります!
東京電力の取水口を過ぎ、「遊歩道を散歩しているというよりかは、トレッキングじゃないの?」という山道を進んでいくと・・・あれ?斜面に道が落ちてるぞ??(?_?)
更に暫く進むと・・あ!さっきの道はもともとこんなだったんだ!(○_○)
どうやら落石などで落っこちたようですね・・・こわ~い。
頭上を気にしながら進んでいくと、川辺に降りられる場所へと出ました!
うわ~っ!キレイな水だなぁ~。冷たそう~!\(^O^)/いや~自然ってやっぱり気持ちイイなー!よーし!更にどんどん進みますよー!!!・・・・・・・あれ?なんだこれ??火薬使用中???立ち入り禁止????(?_?)
何がなんだか分からない私に、渓谷の写真を撮りに来ていた素敵なご夫婦が教えてくれました。「あぁ。この先は工事しているから通行禁止だよ。入口に書いてあったでしょ?見なかったの?」そんなバカなぁぁぁぁぁぁぁぁ~!!!!!(T_T)
確かにこの遊歩道は初夏から秋にかけてが見頃で、この季節に来るのは下調べが出来ていない私ぐらいですよね・・と自分を納得させながらUターンです。
竜門橋まで戻り、県道を上っていきます!!
参考書籍を見ると、「竜門峡遊歩道は滝が連続する落合三つの滝、踏むと下から湧いてくるような音の響きがある天鼓林、巨石がつくる平戸の石門、木賊の石割ケヤキ、渓流の蜘蛛淵、栂見の洞穴など様々な自然美を楽しみことができる」と書いてあります。あぁ~あ・・自然美を楽しみたかったなー。( -_-)
少々ふて腐れ気味に歩いていくと、栖雲寺に到着です!
栖雲寺は貞和4(1348)年に業海本浄(ごっかいほんじょう)が開山したとの事で、武田家の信望が厚く、武田家第13代当主信満のお墓があります。銅鐘など多くが県と市の文化財に指定されています。
裏山には巨大な自然石で造られた大庭園があり、紅葉の季節にはここを歩くだけでも十分楽しめそうです!
皆さんは道ばたで「○○発祥の地」というような石碑に出くわす事がありませんか?「団十郎発祥の地を歩こう!」では、市川団十郎はもちろん、山梨県での水力発電発祥の地が、旧三珠町という事も紹介させて頂きました。また、前回お届けした南部町は、南部氏発祥の地でしたよね(メタボブログ「南部氏の郷を歩こう!」はコチラ)。今回は蕎麦切り発祥の地の石碑があると友人から聞き、いてもたってもいられずに観に来てしまった訳です。山梨県が発祥なんて、うれしいですよね!(^_^)
さあ!目的も達成したので、蕎麦を食べて帰りましょー!何せ蕎麦切り発祥の地ですから、美味しい蕎麦屋があるに違いません。地元の人に聞いてみましょう!
え?すぐそこにあるけど、今は時期じゃないから営業していない?あぁ・・・そうですか・・・ソバにあるのにねぇ。(T_T)
文:川上明彦
【蕎麦切りについて調べてみました】
日本のソバ栽培は五世紀の中ごろにまで遡るといわれていますが、蕎麦切りとしての歴史は比較的浅いようです。大衆食として普及したのは、江戸時代中期になってからのことであり、また農村においても一般化したのは同じく江戸時代中期以降との事です。普及はともかく、そば米やそばがきに代わる新食品としての蕎麦切りの起源は、不明な点が多く確定はされていません。
発祥の地に関してもいくつかの説があり、その中で、江戸時代中期の国学者である天野信景が書いた雑録『塩尻』の宝永年間の所に、甲州の天目山から始まったという記述があるようですが、長野県塩尻市が発祥という文献もあるようです。
ちなみに、当時の蕎麦切りの食べ方は盛り蕎麦に近かったようですが、味噌の垂れ汁に薬味を入れて、それに蕎麦を侵して食べていたようです。その薬味には、花鰹、わさび、唐辛子、海苔、今では異様にに思われる焼き味噌やら梅干しまでも使い、その上に大根の絞り汁が、どうしても無くてはならぬものとされていたとの事です。
食べてみたいですねぇ。