旧町名を復活させたい 〜双葉町③〜
今月も地域の歴史を知り、地域に愛着を持って仕事に取り組むべく、旧双葉町の歴史を紐解いていきたいと思います。
先月号で取り上げました黄梅院跡。
竜地宿へ上っていく坂道にあり、この坂道は「竜坂」と呼ばれていたようだとお伝えしましたが、これは間違いで、正しくは「滝坂(たきさか)」でした。
お詫びして訂正いたします。
数名の読者様からご指摘をいただき、間違いに気付くことが出来ました。
本当にありがとうございます!ちなみに、滝坂という名の由来は調べきれませんでしたが、読者様からいただいた情報では「諸説はあるものの、滝のような坂だったからそう呼ばれた」とのことです。
さて、双葉町には滝坂以外にも、かつての穗坂路を感じられる道が残っています。
滝坂を上り、県道6号甲府韮崎線を西へと進むと、「双葉保健福祉センター南」という交差点があります。
直進は左に大きくカーブしていき、右折すると1月号でご紹介した武田社方面となりますが、真ん中に見える細い道。
こちらが旧道となります。
道を入って直ぐ左手に、秋葉神社を祀った石祠があります。
秋葉神社は、竜地竪町の今村家本家の祖先が、遠州の秋葉山三尺坊大権現神社を勧請したのがはじまりとのこと。
毎年12月17日には、火難除けや五穀豊穣を祈願する儀式が行われていたそうです。
旧道を更に進んでいくと、右手に双葉東小学校が見えてきますが、グランドに面した一角に大きな石碑があります。
ひとつは忠魂碑ですが、もう一つには「石書大乗妙典」と驚くほど深く掘られています。
この石碑は、双葉東小学校の東側にある「竜地の大溜池」の完成と安泰を記念して、天保3(1832)年に建立されました。
竜地の大溜池は、山梨の三大堰のひとつである「楯無堰」の水を溜めるために、文化3(1806)年から26年かけて造られたものです。
茅ヶ岳南麓は昔から水に乏しく降水量もわずかで、最南端に位置する竜地村は最も水に恵まれない高燥地帯。
田へ水を引くどころか、飲み水の確保すら難しい状況でした。
そんな住民の困窮を見かねて立ち上がったのは、宇津谷村に隠居していた摂津の浪士、野村久左衛門宗貞(のむらきゅうざえもんむねさだ)です。
宗貞は甲府藩主に堰の開削の許可を得て、寛文6(1666)年に工事へ取り掛かります。
計画は、明野村小笠原(現在の北杜市明野町)で塩川を堰き止めて新堰へと導き、十ヶ村を通水させるというものでしたが、工事費用を節約するために、約17kmの最短距離で結ぶべく、標高差を36mに押さえるという難しい工事でした。
しかも、茅ヶ岳裾野の土地は、水を透しやすい火山灰が多く含まれ、ところどころに巨石が埋まっていたこともあり、開削工事は困難を極めました。
しかし、地元や近隣住人の出資や協力もあり、楯無堰は3年程で完成します。
名称の由来は、宮ノ窪(韮崎市宮久保)付近の立石原という地名が訛って「楯無原」と呼ばれ、水路がその地内を通っていたことから楯無堰と呼ばれるようになったとのこと。
現在、楯無堰の終着地点である大溜池は工事中で、施設内に入ることが出来なかった為、双葉東小学校側から写真を撮ろうと回り込んだところ、素敵な看板を見つけました。
学校教育の中で、地域の歴史と楯無堰の重要性、野村久左衛門宗貞の偉業をしっかりと伝えているのですね。
さて、楯無堰を流れる水は、飲用・灌漑用水として付近の村を潤してきましたが、宝暦年間(1751〜1764年)に水配役人が上流にいくつも取水口をつくったため、下流まで水が流れなくなってしまいました。
そこで、享和3(1803)年に竜地の大溜池を造る計画が持ち上がったのです。
住民は工事を始めるにあたり、小石に法華経を墨で書き、溜池の底へと埋めました。
この法華経の文字が、前述の「大乗妙典」とのこと。
溜池の中にある島には、厄災を取り除いてくれる弁財天が祀られています。
人間が生きていくうえで最も重要と言える「水」。
楯無堰や溜池には、多くの人たちの思いや祈りがこもっているのですね。
(次号につづく)
文:川上明彦