旧町名を復活させたい 〜桶屋町、鍛冶町〜
『ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶことの喩えである。また現代では、その論証に用いられる例が突飛であるゆえに「可能性の低い因果関係を無理矢理つなげてできたこじつけの理論・言いぐさ」を指すことがある。』
(Wikipediaから抜粋)
幼少のころ、意味は理解出来ていませんでしたが、言葉の響きが面白かったので記憶に残ったことわざのひとつです。ことわざの語源には諸説があるようですが、江戸時代の浮世本には「桶」ではなく「箱」と記されているとのことなので、時代と共に少しずつ変化していったのかもしれません。
現在の中央5丁目から城東2丁目にかけて、旧桶屋町は存在しました。
桶屋町という名称を初めて聞いた時、ことわざと共に桶屋という職種の存在に驚いた記憶も甦りました。私の世代は桶と聞いて思い浮かぶのは風呂桶や洗面桶ぐらいで、それだけを作ることが商売として成立するとは思えなかったからです。
しかし、水汲みの手桶や台所で使う洗い桶、洗濯用のタライ、お米を入れるおはち、漬物桶など挙げ出せばキリが無いぐらい江戸時代の生活に桶は無くてはならない存在でした。農家を営んでいれば、さらに多くの桶を使ったでしょう。
そんなことから、江戸期の桶屋町には40軒ほどの桶屋さんがあり、新世帯を持つことになった人たちは真っ先にこの町に来たそうです。明治に入ってからもガラスの一升瓶が一般に出回るまで酒樽が主流を占めており、製造用から営業用まで、さまざまな用途と大きさの樽を桶屋さんが作っていました。明治期には随分と減ってしまった桶屋さんですが、醤油や味噌樽なども作っており、桶屋というよりは樽屋として栄えていたようです。
▲現在の桶屋町通り
現在の中央4丁目となる、旧桶屋町の西隣には鍛冶町という町がありました。こちらは甲府城下町を整備した際に、古府中の鍛冶小路から名を移したとのことですが、町名通り鍛冶屋さんが軒を連ねていました。
鍬(くわ)や鋤(すき)といった農機具やツルハシ、石ノミといった土工用機具などをつくっていたそうで、真っ赤になった鉄片を鎚で叩く音が鳴り響いていたそうです。
昭和初期まで鉄工所という形でいくつか残っていたこともあり、思い出を語ってくれる方もいましたが、現在は一軒も存在しないのが残念です。
▲南北に走る魚町通りの西側が鍛冶町、東側が桶屋町。
桶屋町と鍛冶町は木と鉄といった違いはあるものの、職人が住む町という点では共通しており、それが隣り合って存在することから、甲府城下町は計画性を持って効率的に作られたことが分かります。嬉しいことに桶屋町には木の神を祀る「山神社」、鍛冶町には金属に関する技工を守護する神を祀る「金山神社」が、今も当時の面影を伝える存在として残っています。どちらの神社もキレイで、地元の方々が大切にしていることがうかがえます。
▲木の神を祀る山神社。
▲賽銭箱も金属でできている金山神社。
その土地に住む人たちが受け継がれたものを大切にするということが、旧町名を後世に伝えるために最も重要なことなのだと感じさせられました。最近引っ越しをされた方は、その土地の成り立ちを調べ、大切にすべき存在を確認してみてはいかがでしょうか?
文:川上明彦
甲府城の3の堀
山神社を訪れた際に、面白いことに気付きました。
神社のすぐ横には開運橋という小さな橋があり、その下を濁川が流れていますが、その流れが不思議なのです。甲府市に住んでいる方は、川は北から南に向かって流れていると感覚的に染みついているかと思います。しかし、この開運橋の下を流れる濁川は、南から北に向かって流れているのです。
実は甲府城のお堀は甲府城の敷地が解放されてから埋め立てられたり、暗渠化されましたが、一部開水路として現存している部分があります。この開運橋の下の流れはそのひとつで、三の堀として人工的につくられたものになります。
その後、濁川はまた東側へとクランクし、笛吹川へと続いていきます。
■参考資料:甲府街史、甲府市統計書、山梨百年、Wikipedia