旧町名を復活させたい リターンズ~穗坂路の起点 塩部~

 2017年12月号で一区切りをつけた連載「旧町名を復活させたい!」。多くの方から「また何かの機会に再開して欲しい」と、ご要望をいただいておりました。
 私がこのシリーズを連載していたのは、旧町名を切り口に歴史を知ることで、「我が町甲府」に誇りを持って貰いたいという思いからでした。
 2019年は武田信虎公が、川田町から躑躅ヶ崎へと館を移してから、500年目となる節目の年です。さまざまなところで行われている「こうふ開府500年」のイベントは、「2019年に開府から500年目を迎える」という事実を知って貰うことが目的では無く、節目の年を切っ掛けに「我が町甲府」の歴史を知り、誇りを持ち、「これからの甲府」について考えていくことが重要で、旧町名を復活させたい!を連載していた私の思いと一緒だと感じています。
 そんなことから、2019年まで残り1ヶ月ほどとなったこのタイミングで、こうふ開府500年を応援するという思いを込め、旧町名を復活させたい!リターンズとして掲載したいと思います。\(^O^)/


 2018年7月1日付の山日新聞に掲載された特集「山梨『道』との遭遇」では、甲斐の九筋が取り上げられていました。信濃方面へとつながる穗坂路、逸見路、棒道。駿河方面へとつながる河内路、中道、若彦路、鎌倉街道。武蔵国へと繋がる青梅街道、秩父往還の9つの街道は、それぞれ整備された年代がバラバラではありますが、長い歴史の中で、甲斐の国の人々の営みを支えた重要な存在。今回は穗坂路にスポットを当て、旧町名の歴史を紐解いていきたいと思います。


 穗坂路は、信州佐久の川上とを最短距離で結ぶ古道ということから「川上口」とも呼ばれていました。起点とされているのは現在の塩部1丁目。山梨県道6号甲府韮崎線(通称北バイパス)を武田通り方面から相川を渡り、大きなクランクを曲がったところ。この辺りには以前交番がありました。


 その元交番の裏のお堂には、塩部関屋地蔵尊が安置されています。
 天明6(1786)年に甲府の僧元通(げんつう)が、伊勢国関の地蔵菩薩に帰依し、それを模してつくったとのこと。厄除、安産、交通安全の霊験があり、現在も信仰されています。かつては穗坂路の起点として、道沿いに南面していましたが、道路拡幅改良工事の際に現在地へ移されました。

 塩部という名称の由来は、この地を流れる水に塩気があったことからで、鎌倉期には相川西側の広大なエリアが塩部荘と呼ばれていました。戦国期には塩部郷、江戸期には塩部村となり、慶長6(1601)年の検地帳には、寺屋敷と神主の屋敷が19、民家が6戸と記されています。甲府城築城の際は、三ノ濠の西端が当村内に及び、相川も外郭の備えとされたため、居住者は甲府城下の横沢町へと移されましたが、旧村民は長年に渡り支配役人へ復興を訴え、天明2(1782)年、甲府代官中井清太夫によって復興が許されました。
 喜んだ村民は、清太夫引退後の文政4(1821)年に石祠を建立し、神明神社として祀りました。


 余談になりますが、この中井清太夫は甲斐の国にとって素晴らしい代官だったようで、安永9(1780)年の洪水と天明の大飢饉で苦しんでいた領民を救うため、九州から馬鈴薯を取り寄せ、八代郡九一色郷で試作に成功すると、甲州芋として領内での普及に尽力し、その功績から清太夫芋の別名が付けられました。
 ちなみに、上野原市一帯に伝わる郷土料理「せいだのたまじ」は、小さなジャガイモを味噌と砂糖で甘辛く煮たものですが、「せいだ」は清太夫の名からとられています。

 明治22年、塩部は千塚村の大字名となり、明治40年には歩兵49連隊の甲府常駐が決まったことから、兵営用地として一部があてられました。甲府連隊が入ってからは、人の出入りが増え、更には精米市場へ運ぶ荷馬車が頻繁に通るようになったことから、飲食店などが増えて発展。昭和17年には塩部町となり、戦後の住宅不足から急速に宅地化が進んだことから、昭和30年代には農地がわずか1反歩(約300坪)になったとのこと。その後、昭和43年に現在の塩部1〜4丁目の形になりました。

大正10年の地図で、練兵場の文字の下辺りから、左上に真っ直ぐ伸びる道が穗坂路です。この道が関屋往還と呼ばれていたこの頃の塩部は、殆どが田畑で、現在の緑が丘には練兵場や射撃場と記されています。


 この写真はその練兵場。旗手のいる辺りが緑が丘スポーツ公園入口付近とのことです。


 こちら昭和33年の塩部、湯村一帯で、中央に見えるのが現塩部第二団地だと思われます。団地の右上に見えるのは、甲府市立北中学校の校庭でしょうか?
 大正10年の地図に比べると大きな建物が増えていますが、まだまだ多くの田畑が見られます。この後、急速に住宅が増えていき、あっという間に田畑が無くなっていく訳ですから、高度経済成長の時代は、今以上に変化のスピードが速かったのでしょう。

 以前にこのシリーズを連載していた時は、甲府城下町以外は若い町なので、あまり掘り下げる歴史はないだろうと思っていましたが、今回の取材をきっかけに、大きな勘違いをしていることに気付けました。それもこれも、諸先輩方がさまざまな資料を残してくれていたおかげです。後世に伝えていかなければ、歴史は無いものになってしまいますから、資料を残すことは重要です。
 現在は過去の積み重ねでできており、今を生きる我々が現在を積み重ねることで、未来ができていきます。甲府市民ひとり一人が、ひとつでも良いので、我が町のことを知り、ひとりでも良いので、伝えることが出来れば、甲府の未来は大きく変わっていくような気がします。
 こうふ開府500年を機に、私も出来ることをやっていきたいと思います。

文:川上明彦

参考資料:甲府市統計書、山梨百年、甲府市HP、角川日本地名大辞典、甲斐の国 山梨の道を探して(国土交通省関東地方整備局甲府河川国道事務所)