旧町名を復活させたい 〜双葉町②〜

旧道

今月も地域の歴史を知り、地域に愛着を持って仕事に取り組むべく、旧双葉町の歴史を紐解いていきたいと思います。

先月号でお伝えした通り、竜地は信玄公との結びつきが強い地域となりますが、他にも武田家の面影を感じられる場所がいくつかあります。
県道6号甲府韮崎線を旧敷島町方面から進んで貢川を渡り、坂を上っていくと、右手に「竜地(大屋敷)」という緑の看板が見えてきます。

竜地看板

 看板の手前を甲府方面へ戻るような形で右へと曲がり、十数メートル進んだ左手にある黄梅院跡もそのひとつです。

黄梅院跡

黄梅院とは信玄公と三条夫人の間に生まれた長女ですが、幼少期のことははっきりと分かっていません。
天文22(1553)年、武田、今川、北条の三国同盟をより強固にするため、黄梅院は小田原の北条氏康の嫡男、氏政と婚約します。
時に黄梅院11才、氏政は16才でした。
政略結婚ではありましたが、氏政は黄梅院をとても大切にしたようで、氏直、氏房、直重、氏定という4人の子宝に恵まれます。
このエピソードから、黄梅院は大変気立ての良い女性だったことが想像されます。

ところが、駿河の今川義元が、桶狭間の戦いで討ち死にしたことを切っ掛けに、状況は一変。
戦国時代は非情です。
義元とその重臣の多くが討ち死にしたことで、跡継ぎの氏真は相次ぐ離反に合い、立場を弱くしていきます。
19世紀前半に編集された「徳川実紀」では、氏真の柔弱を疎んで重臣達は今川家を去り、徳川家に帰順したと描写されていたり、「甲陽軍鑑」では、自分に媚びへつらう者を重用して失政を行ったと批判されていることから、氏真はあまり器の大きな人物では無かったのだと推察されます。
そのことが関係しているのか、信玄公は永禄11(1568)年に、駿河攻めを敢行。
駿河城を陥落させました。
このことで北条氏康は激怒し、同盟は破綻。
黄梅院は離別させられてしまいます。
4人の子ども達を残し、憔悴しきった黄梅院は甲斐の国へ戻ってきますが、自分の命が長くないことを悟ったのか、出家を遂げて尼となり、法号黄梅院を与えられます。
その後、帰郷してからわずか半年の永禄12(1569)年6月17日、帰らぬ人となりました。
享年27才という若さでした。

信玄公は、少女の身でありながら氏政に嫁ぎ、甲斐国と相模国の絆になってくれたにも関わらず、戦国の世の運命に翻弄された娘の冥福を祈り、黄梅院尼を開基とする寺を竜地に建立し、延命山黄梅院と名付けます。
残念ながら、明治初期に廃寺となり、寺院の規模がどれぐらいだったのかも分かっていませんが、跡地には付近から集められた五輪塔など石造物が建てられています。

この悲しい歴史を知った時、寺院が残っていて欲しかったと思いましたが、せめて跡地だけは引き続き大切にし、後世に伝えていきたいですね。
ちなみに黄梅院跡がある通りは、区画整理によって大きく変わった現在の町並みにおいて、かつての穗坂路を感じられる旧道です。

この辺りは竜地宿へ上っていく坂道ということから、竜坂と呼ばれていたようです。
行政区分には見当たらないので、地元の方々の通称になるのでしょうか?この通称も「竜坂公民館」として名残をとどめているのは嬉しいですね。

※正しくは「滝坂(たきさか)」および「滝坂公民館」でした。お詫びして訂正いたします。

滝坂公民館

黄梅院跡から竜坂を甲府方面へと少し下ると、左手に龍蔵院があります。

龍蔵院

龍蔵院には、かつて黄梅院の本尊だった子安地蔵があり、甲斐市の文化遺産に指定されています。
また、境内にひときわ大きな木が立っているのは、甲斐市指定天然記念物の無患子(むくろじ)で、市内ではもっとも大きく、たくさんの実をつけるそうです。

無患子

実の中にある黒い種は、羽根つきの羽の黒い玉に使われるそうで、もしかすると黄梅院の子ども達も、無患子の種を使い、お正月に羽根つきを楽しんでいたかもしれませんね。

(次号につづく)

文:川上明彦

参考資料:ふるさと双葉(中村忠夫著)、双葉町ところどころ(保坂吾良吉著)、甲斐市ちいさな旅18、Wikipedia