旧町名を復活させたい 〜中道往還 前編〜
2017年5月20日。「マチコレ!まつり」のイベントのひとつとして、「旧町名から紐解く甲府の歴史ゼミ」を開催しました。ご参加いただいた皆さん、本当にありがとうございました。明治から昭和にかけての写真展示を一緒に観たり、逆に珍しい資料を見せていただいたりと、大変楽しい時間を過ごさせていただきました。その旧町名ゼミでは、2016年6月号で取り上げた、魚町についても少しだけ話をさせていただきました。魚町の由来はその名の通り、武田氏の時代に魚の市を立てた場所であったことによると、甲府略志に記されています。海の無い甲斐の国で、なぜこの場所に魚の市が立ったのか不思議に思いますが、その答えは中道往還にあります。
中道往還とは、甲斐の国と駿河の国を結ぶ街道のひとつで、河内路と若彦路の中間に位置することから「中道」と呼ばれるようになりました。他の2経路の真ん中を突っ切る形でつくられたルートということで、駿河までは最短距離の20里(約78km)ほどだったそうです。
しかし、当時の移動手段は、荷物が多ければ馬を引いたかもしれませんが、ほとんどが徒歩だったはず。その長い道のりを、当時の人たちはどのような思いで、どんな風景を見ながら行き来していたのでしょう?
そんな疑問から、少しでも当時の方々の思いを感じてみたいと思い、魚の道を辿ってみることにしました。
但し、現代人の私は、徒歩ではなく自転車です。(笑)
遠い駿河に思いを馳せながら、旧甲州街道と魚町通りが重なる「中央」の交差点からスタートです。
魚町通りを南下し、三日町、連雀町(上連雀町、下連雀町)との交差点を超えます。
三日町は毎月3日に市が立ったことから、連雀町は行商が背負子を降ろしてその場で店を出したことから命名された町名です。両方とも甲府城築城と共に上府中から移した名ではありますが、江戸時代も商業地帯として大いに栄えました。おそらく中道往還は、これらの町の賑わいにも一役買っていたのでしょう。ちなみに現在、旧上連雀町付近では、甲府城下町の発掘調査が行われているようです。
このお寺は大変由緒正しく、建立には武田信玄の父親である信虎が大きく関わっています。面白いのは、もともとは信虎によって古府中の穴山小路(現在の武田1〜2丁目辺り)に身延山久遠寺第十三世日伝上人を招いて開山し、「真立寺」と名付けられたのですが、武田家が滅んだ後に徳川家康が甲斐へ入国した際、草創の由来から信虎の「信」の字をとって「信立寺と改めるべき」と薦めたことから信立寺になったとのこと。現在の場所へと移ったのは、やはり甲府城築城の時で、その後も身延山久遠寺の府中宿寺として位置付けられ、身延別院などと称されたそうです。(2016年6月号のMattocileciから抜粋)
青沼通りとの交差点を越えると、右手は旧太田町、左手は旧東青沼町へと入ります。
2016年9月号で旧西青沼町を取り上げた際に触れましたが、ここら辺は武田氏の時代には沼地、低湿地の青沼郷でした。
その後、甲府城築城とともに城下町が形成され、西青沼町と東青沼町へと分かれたそうです。
そのまま進んでいくと、左手に甲斐清和高校、右手には正の木さんでお馴染みの稲積神社があります。
戦国時代に現在の場所に移った稲積神社の歴史は古く、その始まりは甲斐源氏の祖、一条忠頼にまで遡ります。稲積神社のHPから抜粋すると「今から約2,080年前、上古時代湖沼地帯であった甲府盆地を第十代崇神天皇の御代四道将軍武淳川別命東征の折、御入国があり、湖岸を切り開き湖水を富士川に落として涸燥して、田圃を造り蒼生愛撫、五穀豊穣、祈願のため、丸山に奉斎したと伝えられる(丸山は今の舞鶴城址)甲斐源氏の祖、一条次郎忠頼丸山に館するに当り、庄城稲荷と呼ばれ氏神として甲斐源氏一条忠頼一族の崇敬する所となっていたが文録年中浅野長政の築城に当り一蓮寺と共に現地に遷された。
明治元年神仏混こう禁止により一蓮寺と離れ、明治9年2月甲府第二区郷社となる。」
更に南へと進み、青葉通りへとぶつかるので左折し、少し進んですぐに湯田小西南交差点となるので右折。
大正10年の地図を見ると、ここからはほとんど建物が無く、田畑が広がっていたようですね。
現在は幸町と湯田2丁目の境となるこの通り。実は昭和4〜41年にかけて、住吉通(すみよしどおり)という町名でした。
大正末期から昭和初期にかけて行われた、耕地整理と道路網建設によりつくられた町ということです。
幸町は昭和41年から現在の町名で、由来は新たな繁栄を願って付けられた佳名と思われます。
(次号へつづく)
文:川上明彦