旧町名を復活させたい 〜久保町、御崎町、袋町〜
梅雨の時期が近づいてきました。雨の日は新聞が濡れないように、滑ってバイクを転倒させないようにと、配達スタッフはとても苦労をします。細心の注意を払って配達を行いますが、もし何か気になることがございましたら、ニュースコムまでお気軽にご連絡ください。
ところで、なぜ梅雨の時期である6月が、旧暦で「水無月」と書くのかご存知でしょうか?
諸説があるようですが、水無月の「無」は「の」という意味で、「水の月」であるという説が有力のようです。旧暦の語源は、長い歴史の中で言語学的に根拠の無い「民間語源」が多く出現したことから、本当の理由が分からなくなってしまったようです。後世に正確な情報を伝えたいのであれば、しっかりと記録を残す必要があります。この「旧町名を復活させたい!」のコーナーも、そんな思いで毎月書いております。もし間違いなどに気づいた際は、ご連絡いただけると幸いです。
さて、今月号も2019年に迎える開府500年に向けて、上府中の町名について調べていきたいと思います。
先月取り上げました旧白木町の上、現在の山の手通りより一本北側にある東西の通りは、旧久保町となります。
旧久保町は江戸期から昭和37年にかけての町名で、江戸期は甲府城下上府中26町のひとつ。窪町とも書くそうです。武田氏時代に造営された町のひとつで、甲府城築城に伴い新城下に組み込まれました。
さまざまな資料に目を通したものの、町名の由来は分かりませんでしたが、県内にある「窪(久保)」が付く土地は、くぼ地だったことで命名されていることが多く、久保町もそのような特徴があったのかもしれません。もし由来をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご連絡をお願いいたします。
旧久保町の西側にある東西の通りは旧御崎町です。江戸期から昭和37年にかけての町名で、江戸期は甲府城下上府中26町のひとつ。武田氏時代に造営された町のひとつで、甲府城築城に伴い新城下に組み込まれました。町名の由来は御崎神社にちなみます。
御崎神社は、もともと石和郷に鎮座していたものを信虎が躑躅ヶ崎館の三の曲輪へと移築し、武田氏代々の崇敬の神社となりました。
おや?ということは、2017年2月号で宮前町を取り上げた際に触れた、八幡神社と同じ歴史を歩んでいるのですね。小学校の帰りに鬼ごっこや缶蹴りをしたり、夏の夜にはカブトムシやクワガタを探しに行った八幡神社は、私にとって思い出深い神社とご紹介しましたが、御崎神社は私が生まれ育った家から目と鼻の先ということもあり、更に色濃い思い出が詰まっている特別な場所です。
私の子供時代に大きく関わっている2つの神社が、武田氏と深く関わっていたことを知り、何だか嬉しくなりました。天正10(1582)年に武田氏は滅亡し、織田勢によって1度は破壊されてしまった御崎神社は、甲府城築城に伴い、甲府城北西の守護神として現在地に再建されます。天正14(1586)年には徳川家康が参詣しており、以来は徳川家との関係が強く、元和8(1622)年には徳川家康を相殿に祀りました。
さて、大正10年の地図を見ると、御崎町は東西に大きく広がる町となっており、町内には2つの寺院が見られます。そのひとつである法性山玄法院に、鐘楼があったことをご存知でしょうか?
鐘楼といえば愛宕町にあった「時の鐘」を思い浮かべますが、こちらの鐘楼はそれを模して明治25年に造られたと伝えられています。甲府空襲でも焼けずに残りましたが、終戦後には老朽化により取り壊されてしまいました。甲府駅北口の甲州夢小路にある時の鐘は、玄法院に残されていた資料や礎石を基に忠実に再現されているそうです。ぜひご覧いただき、その大きさを実感していただければと思います。
旧御崎町の南側で、現在の横沢通り北交差点辺りから相川までは旧袋町です。
江戸期から昭和37年にかけての町名で、江戸期は甲府城下上府中26町のひとつ。武田氏時代に造営された町のひとつで、甲府城築城に伴い新城下に組み込まれました。江戸末期まで相川に橋はなく、袋小路だったことから命名されたとのこと。
手持ちの資料の中に「南側の西橋には神明社が祀られ、境内の井戸の湧水は上府中の白木、御崎、久保、元穴山の各町でも飲料水として利用されていた」と書かれていたことから、その場所を探してみたところ、一高前歩道橋の南に袋大神社を発見!おそらくここのことでしょう。
近所に住んでいながら、この神社の存在は知りませんでした。神社の横には袋公民館があり、旧町名が自治会名としてしっかり残っていることも確認できましたし、歩き回ってみると新たな発見があって面白いですね。
文:川上明彦