旧町名を復活させたい 〜工町〜

1605main

今年もやってまいりましたGW。お出かけのご予定はありますか?混雑がイヤなので遠出はしたくないという方にオススメしたいのが地元の散策です。新たな発見があり、充実した休日が過ごせると思いますよ!

私が以前にこの誌面で連載していた「脱・メタボウォーキング」は、県内のさまざまなウォーキングスポットを紹介するコーナーでした。ぜひお出かけの参考にしてください


ウォーキングと言えば、先月号では五丁下りを歩きながら旧町名の面影を探しました。取材の時に気になったのが、参考資料の地図に春日小学校や琢美小学校の名が見えたことです。春日小学校は平成26年12月号で触れた通り、生まれは春日町となります。では、平成23年に富士川小学校と統合し、善誘館小学校と名称を変えた琢美小学校には、どのような歴史があるのでしょうか?

1605kousha

同校は県内でもっとも古く、明治7年に公立小学校琢美学校として創立され、藤村式建築の校舎が工町に造られました。
上の大正後期の地図で春日小学校と記されている場所が生誕の地となります。名称は新築の地である工町からきていますが、漢字を「琢美」にした理由までは分かりませんでした。しかし「琢」という漢字には「努力して学徳やわざをみがきあげる」という意味があるようですので、当時の方々の願いが込められていると想像できますし、センスも感じます。
その後、甲府市尋常小学校や甲府尋常高等小学校などに名称を変えつつ、明治33年には甲府代官所跡地に新しい校舎を建築。これを本校と定めて甲府市富士川尋常小学校とし、元の校舎を琢美教場と改称しました。平成23年、両校の統合の際に新聞にも大きく取り上げられましたが、富士川小学校と琢美小学校はもともとひとつの小学校でした。※

現在の善誘館小学校という名称は、自治会関係者や学校関係者、保護者などで組織する新設校設置推進委員会での検討や、甲府市民からの公募、甲府市教育委員会の提言などを経て決まりました。善誘館は琢美学校の前身で、明治5年の学制頒布に伴い、横近習大神宮に置かれ、塾や寺子屋の児童が収容されていました。元々ひとつであった善誘館が、約130年の時を経て再び一つになるという歴史的意義と、「善く人を誘う」という言葉の意味の良さからということですが、ドラマチックな話ですよね。

大正2年に地図の場所へと移転した琢美小学校は、昭和58年に甲府監獄跡地へと移転するまでの約80年間を深町で過ごします。この琢美小学校跡地には、現在甲府市立図書館が存在します。

さて、話を本来の主旨である旧町名の由来に戻します。旧工町は現在の中央3、5丁目と城東1、2丁目にまたがる町で、江戸時代には三の濠で囲まれた郭内の東端に位置し、北は山田町、南は下連雀町に接していました。名称の由来は、甲府城築城にあたり古府中の大工町から名を移したそうですが、なぜ「大」の字が省かれたのかは不明です。その名の通り職人町として発展し、大工だけでなく、箪笥や重箱類の細工職人や漆塗りの職人なども多く住んでいたということで、魚町、桶屋町、鍛冶町と同様に、当時の風景を後世に伝える貴重な名称と言えます。

ちなみに地図で春日小学校の横にある市立工藝学校ですが、現在の甲府工業高等学校となります。大正6年に旧琢美小学校を校舎とし創立され、昭和3年に現在地の塩部へ移転。昭和11年に市立甲府工業学校と改称し、同16年に県立となります。
工(たくみ)の町で生まれた学校が、現在も同じような主旨で残っていることに、何とも言えない嬉しさが込み上げます。残念ながら現在は、通りの名称以外で当時の面影を見ることは出来ませんが、この地で生きた人たちの思いや価値観はしっかりと受け継がれていると感じさせられました。

▲現在の工町通り

▲公立小学校琢美学校跡地は現在の山梨中央銀行東支店付近。

私たちも受け継ぐ者のひとりとして、しっかりと後世に伝えていきたいですね。

文:川上明彦

※お詫びと訂正
5月号でご紹介したこちらの記事の「甲府尋常高等小学校」について読者の方からご指摘をいただきました。
「甲府尋常高等小学校」は甲府市尋常小学校の卒業生が進学する学校で、男子は富士川小の場所、女子は当初の琢美学校の場所に設けられた学校だそうです。なので琢美小学校の歴史には直接関係ないというご指摘でした。ここに訂正しお詫び申し上げます。またご指摘に対して感謝申し上げます。

ittemiloci

めったっ町のお稲荷さん

甲府城下町をつくる中で、商工業の守護神として旧工町に奉祀された神社です。万治3(1660)年の大火発生時に、この地域が火災を免れたことにより、誰言うことなく「めでたい町」と呼ばれはじめました。その後も度々の大火にもこの地域は火災を受けず、崇敬の念は一層高まり、何時しか「めったっ町のお稲荷さん」と呼ばれるようになりました。残念ながら甲府空襲では焼失となりましたが、ご神体は残り、戦後本殿のみ再建されたとのこと。素晴らしいのは、その後も地元の人たちが境内の整備や祭典振興に努力し、長き年月を経て平成12年に社殿が再建されたことです。
 先人の思いは確かに受け継がれていると言える物語に感動を覚えます。

参考資料:甲府街史、甲府市統計書、山梨百年、Wikipedia