旧町名を復活させたい ~佳名(2)~

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か‐めい【佳名】
1.いい名。縁起のいい名。
2.いい評判。名声。
※国語辞典より

 この旧町名を復活させたいという企画を始めてから大変な反響をいただいておりますが、特に8月号の「甲府空襲」ではたくさんのお葉書をいただきました。
 「20歳までのすべての想い出の品々を失ってしまいました。必死で立ち上がり、バラックを建て、野草を摘んで喰べました。泣き言も言わず、皆さん唯々一生懸命でした」(80代女性)や「今の自分が平和な日々を過ごしていられるのも、この人達のおかげだということを改めて感じました」(20代男性)など、さまざまな世代の方からの体験談や感想を大切に読ませていただきました。
 私のように戦争を経験していない世代が増え、語り継ぐ人たちは減っていきますが、二度と戦争をしないという意味で決して忘れてはいけない歴史だと思います。またこのコーナーでもご紹介の機会を設けたいと考えています。本当にありがとうございました!


 さて、先月は甲府城を取り潰して開放された土地へいくつかの町が作られたことをお伝えしました。そして、それらの町名には佳名(縁起が良い名)が多いことも分かりました。
「見わたせば 柳桜をこきまぜて 都ぞ春の錦なりける」
(古今和歌集)
口語訳すると、「見渡してみると柳や桜の色が混ざり合って都が春の錦のようだ」という感じでしょうか。どうやら当時の方はこのような歌から町に名をつけたようですね。あらためて日本語の美しさを感じます。

 先月号の最後で少しだけ触れた常盤町。大正時代の地図を見ると勧業銀行支店や第十銀行、西山梨郡役所などが見えます。勧業銀行は今のみずほ銀行で、第十銀行は山梨中央銀行と時代とともに名称は変わっていますが、当時からこの場所にあったことが分かります。しかし西山梨郡役所・・・現在の岡島百貨店辺りですが、これは何でしょう?調べてみたところ、どうやら郡区町村編制法という法令によって、明治11年に発足した西山梨郡の役所のようです。明治から大正、昭和にかけて、凄まじいスピードで時代が移りゆく中、行政の区域割りも数年単位で変わっていきましたが、甲府市が生まれる前の甲府城周辺は西山梨郡だったのですね。その後、さまざまな編入や合併をくり返し、昭和29年に西山梨郡は消滅しています。

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 さて、上の写真は昭和初期の常盤町交差点です。ガタ馬車の愛称で親しまれていた鉄道馬車の軌道も無くなっており車が走っています。しかし現在と同じぐらい広い道幅にも関わらず、交通量は比較になりませんね。正面が勧業銀行で、後方には前月号でご紹介した甲府電力の建物が見えます。左手前の建物は地図では県庁となっていますね。

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 上の写真は常盤町交差点にあった道路原票です。現在の道路原票は2013年12月号でご紹介した通り、甲府警察署の北側にあります。この木製の道路原票には「鰍沢方面へ4里18町27間」と書かれていました。写真をよく見ると木製の荷車を着物姿の子どもが引いている様子が伺えるので、明治から大正にかけてのものだと思われます。

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▲現在の常葉町交差点。

 常盤町の西側にある錦町も明治8年から約90年の間、甲府市民に親しまれてきた由緒ある町名です。地図を見ると議事堂や県庁、警察署といった行政機関の町という印象を受けますが、元々は甲府城郭内の武家屋敷があった辺りということですから納得です。しかしちょっと時代を遡り、錦町という名が生まれた明治初期を調べてみると、面白いことが分かってきました。実は錦町には藤村県令によって、明治7年に県営の勧業製糸場が設立されてます。錦町と命名されたのが明治8年ですから、何だか関係があるように思えてきます。
また地図上の県立病院は山梨県師範学校(徽典館)が相川村へ移転した跡地に建てられたものです。現在では甲府法務総合庁舎や日本銀行甲府支店などがありますが、庁舎北側にある中央公園には、ここに徽典館があったことを記す石碑が置かれています。ちなみに相川村へ移転した山梨県師範学校とは現在の山梨大学です。当時、この徽典館ではたくさんの生徒達が勉学に勤しみ、故郷に錦を飾るために巣立っていったのではないでしょうか?
何だかそう考えると、錦町は佳名以上に意味のある名称に思えてきます。

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▲明治9年に完成した徽典館の初代校舎。当時ではかなりの高層建築物だった。

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▲徽典館跡地の石碑。