旧町名を復活させたい 〜敷島町②~

松尾神社

 今月も地域の歴史を知り、地域に愛着を持って仕事に取り組むべく、旧敷島町の歴史を紐解いていきたいと思います。
 さて、先月号でご紹介した八幡神社。現在の行政区画では甲斐市島上条となりますが、この甲斐市の後に続く大字は、近世の村名がそのまま受け継がれているケースが多く、島上条もそれに当たります。地名は古代に条里制が敷かれたことに由来しており、近世には中下条村、大下条村と共に「島三条」と総称されました。
 中世の頃、志摩荘と呼ばれていたこの辺りは、京都府の嵐山宮町に鎮座する松尾大社の社領だったようで、中下条にある松尾神社は社領の中心的存在だったと考えられます。


 創祀時期は不明ですが、本殿は大久保長安の造営といわれています。蟇股(かえるまた)には、図案的に用いた松や竹、波、鶴、亀の彫刻が見られ、向拝(こうはい)には梶の葉と鹿が浮かし彫りで施されており、桃山期の特徴が認められるとのこと。甲斐市の有形文化財に指定されています。

松尾神社本殿

 かつては松尾神社の境内地だった、神社南側にある松島さくら保育園。敷地内にある巨大なケヤキは、その名残となります。

松島さくら保育園のケヤキ

 大火や戦争にも負けず、境内には樹齢数百年の樹木がうっそうと茂っていましたが、伊勢湾台風でほとんどが倒木したとのこと。最後の1本となりつつも、子ども達を見守ってくれている巨大なケヤキ。大切にしていきたいですね。
 島三条は古くから荒川の水を堰によって引き取り、豊かな穀倉地帯を形成していた大村でしたが、明治8年に長塚村、天狗沢村と合併して松島村が誕生。各村名は大字となります。松島村の由来は松尾神社の「松」と、志摩荘の志摩を「島」にあらため合成したそうです。
 昭和2年に福岡村と合併して敷島村が誕生したことで、行政区画から松島は無くなり、現在は前途の松島さくら保育園や弊社敷島店の隣にある松島郵便局など、いくつか名残をとどめるのみとなっています。
 甲府盆地には市川道と呼ばれる、旧市川大門に至る道が何本かありますが、この辺りでは島上条の八幡神社が起点と言われています。八幡神社から南へ真っ直ぐと伸びる細い道は、いかにも古道という雰囲気です。

市川道

 町屋往還と呼ばれていたこの道は、江戸時代に十日市場と呼ばれる市が開かれ賑わっていました。おそらく当時は甲府との交易に適した場所だったのでしょう。
 また、町屋往還にはかつて袖すり橋という橋が架かっていたそうで、「市川男と御嶽女」という伝説が残っています。

袖すり橋跡

 市川の若者が御嶽・金桜神社へ参拝する際に、美しい娘と出会います。恋に落ちた2人は、毎晩のように逢瀬を重ねるようになりました。火葬場など人気のない場所で会っていたものの、危険な場所ということから、ある夜、娘は身を守る為に白装束を着て、頭にろうそくを立てた風貌で現れます。男はこの所業に愛想をつかして逃げてしまい、その後、悲しみに暮れた娘は荒川へと身を投げたそうです。この2人が会っていた場所のひとつが袖すり橋だったとのこと。
 何とも言いがたい悲しい伝説ですが、この話から町屋往還が市川大門と御嶽を結ぶ「市川道」だったと窺えます。
 ちなみに、この市川道。この先で中央線の松島道踏切を越え、中央道をくぐり、山県神社の近くを通りつつ、玉幡、田富を経て市川大門へと通じているようです。近々ウォーキングを兼ねて、探索してみたいと思います。
(次月へとつづく)

文:川上明彦

参考資料:角川日本地名大辞典、中巨摩郡地名誌、甲斐市ちいさな旅09、甲斐市HP、Wikipedia