旧町名を復活させたい 〜敷島町~

八幡神社

 2020年1月号で節目を迎えた「旧町名を復活させたい」ですが、今月号からちょっとだけ復活。数回に渡り敷島町の歴史を紐解いていきたいと思います。
 というのも、10月1日より有限会社五味新聞店から業務を引き継ぎ、株式会社ニュースコム敷島店をスタートさせることになったからです。
 地域の歴史を知ることで、地域に愛着を持って仕事に取り組みたいと考えております。
 甲斐市の皆さま。前販売店と同様にご愛顧いただきますようよろしくお願い申し上げます。


 さて、現在の甲斐市は平成16年9月に竜王町、敷島町、双葉町が合併して誕生しました。
 合併に伴い、敷島という行政区画は無くなってしまいましたが、未だに会話の中ではちょくちょく耳にします。私自身も敷島町の方が馴染み深いことから、弊社の支店名も敷島店といたしました。

 敷島という名称が歴史に現れるのは昭和2年。中世はこの地域が志摩荘(しまのしょう)に属していたため、志摩を島へ転じ、一方、大和国の別称が敷島と言われたことから、これに結んで村名としました。その後、村域が町の規模に発展したということで、昭和21年10月に町制が施行され敷島町へ。
 昭和29年には睦沢村、清川村、吉沢村と合併。この時、新たな町名を公募したものの、再び敷島町と命名されました。
 昭和33年には大下条、長塚の各一部を竜王町へ編入し、同時に竜王町竜王新町の一部を編入。平成の大合併まで、地域の皆さんに親しみを持って呼ばれ続けました。

 敷島の由来となる志摩荘は、現在の甲斐市島上条・中下条・大下条・長塚、甲府市荒川・中村・長松寺・金竹・千塚・湯村の辺りと言われており、志摩の郷「湯村」の回では湯村が元々「湯島(志摩)村」だったことをお伝えしました。
 志摩荘は建久7(1196)年には既に存在していたようですが、命名の由来は定かになっていません。
 ただ、県道6号甲府韮崎線(通称北バイパス)沿いにある八幡神社は、戦国時代に志摩神社と呼ばれていたようで、勧請鎮座されたのが今から約1,200年前の神護景雲2(768)年ということですから、ここに謎解きの鍵があるように思えます。

県道6号から八幡神社を望む

 さて、八幡神社の境内には「飯田河原合戦供養板碑」が置かれています。

飯田河原合戦供養板碑

 飯田河原合戦については、2019年8月号の飯田編でもご紹介をしました。その際に、武田信虎公は飯田河原の戦死者の菩提のため、板地蔵を戦跡に建てたものの、寛政年間の荒川の氾濫により流出したとお伝えしました。
ところが、こちらの板碑は風化摩滅が著しいものの、大永六(1526)年九月と記されているようです。
 飯田河原合戦は大永元(1521)年ですから、時期的にも一致しますし、もしかしてコレが信虎公が建てた板地蔵なのでは??
 う〜ん・・・もし何か知っている方がいらっしゃったら、情報をお寄せいただけると嬉しいです。
(次月へとつづく)

文:川上明彦

参考資料:角川日本地名大辞典、中巨摩郡地名誌、甲斐市ちいさな旅09、甲斐市HP、Wikipedia