旧町名を復活させたい 〜敷島町③~
今月も地域の歴史を知り、地域に愛着を持って仕事に取り組むべく、旧敷島町の歴史を紐解いていきたいと思います。
先月号でお伝えした通り、島上条、中下条、大下条の「島三条」は、古くから荒川の水を堰によって引き取り、豊かな穀倉地帯を形成していました。
土地の肥沃さと耕地の広さで「1に藤井(韮崎)、2に市川(市川大門)、3に島三条」と言われ、島三条米は米市場の値付けにも大きく影響していたようです。
敷島が穀倉地帯として栄えたのには、肥沃な土地と豊かな水以外に、地形を利用した水車精穀業が盛んだったという理由もありました。
元々は飲用や潅漑(かんがい)を目的に建設された水車ですが、江戸時代ごろから精米や精麦に使われるように発展し、最盛期には60ほどの水車小屋があったと言われています。
水車精穀業は、一の堰、二の堰、三の堰に沿って発展しましたが、中でも「境」と「牛句」の境目辺りにある一の堰(甲斐市民バス牛句バス停付近)が最も盛んだったようです。
牛句の由来は、その地形が牛の首に似ているからという説や、水害防備に設置する「うし」と呼ばれる聖牛(ひじりうし)が施行されたことによるなど諸説があります。
ちなみに聖牛とは、武田信玄公が創案した、伝統的水防工法だそうです。
境は中世の頃、この辺りが志摩荘と穗坂郷の境に位置していたことに由来します。
さて、一の堰には昔、石橋が架けてあったそうで、この板石が板地蔵という形で今も残っています。
長い年月の間に石橋は雨風にさらされ、鏡のようにツルツルとなったことから、人馬が通るには滑って危ないということになり、新しい橋へと架け替えられました。
役割を終えた鏡のような石は、宝暦6(1756)年に板地蔵として再利用され、今でも地域の人たちに親しまれています。
この他にも、水車を回していた水路の名残は、さまざまな場所で見ることが出来ます。
上町交差点を東側に入るとすぐ見える水路もそのひとつ。
止水機付近にある石版には「荒川ダム関連事業一の堰上町水路1985.3発注者敷島町」と書かれています。
この辺りは幅広な道を通したことから、ここ十数年で様子が大きく変わりましたが、まだまだ面影は残っているものですね。
ところで、堰の名残を探し歩いている際に気になったのが、「上町」と書かれた交差点の看板です。
そこにはローマ字で「Wade-cho」と記されています。
わでちょう???かみちょうじゃないの??
調べてみたところ、由来が記されている書籍などは発見出来ませんでした。
敷島町時代の小字を調べてみても、この辺りは山宮地(さんぐうじ)という地名で、上町という名称は見当たりません。
ひとつ分かったのは、「わで」とは甲州弁で「上の方」という意味だということ。
おそらく当時の皆さんが、島上条の上部に位置するこの辺りをそう呼んでいたことから、現在も交差点の名称として残ったのではないでしょうか?
もし真実をご存知の方がいらっしゃったら、お教えください!
文:川上明彦