旧町名を復活させたい ~三日町~

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 8月8日(土)。八日町自治会が戦後はじめて「八日市場」を開き、山八幡神社の武田信玄公像の展示を行ったという記事が翌日の山梨日日新聞に掲載されていました。
 八日町は「旧町名を復活させたい!」の第1回目でご紹介した通り、江戸中期から甲府でもっとも栄えた町です。毎月八日に市が立っていたことが八日町命名の由来となります。また、山八幡神社の信玄公像は、甲府駅南口にある信玄公像のモデルとも言われています。実物を目の前で見たかったのですが、私は同日に自社のイベントがあり伺えず残念でなりません。
 こういう取り組みはぜひ応援したいです!来年も開催するのでしたら、何かお手伝いが出来れば幸いです。


 さて、今回取り上げる町名は、八日町と全く同じ由来から命名された「三日町」です。

 甲府城築城に伴う城下町の整備で生まれた町ですが、躑躅ケ崎館を中心に築かれた古府中の三日市場の名を移したとのこと。甲府勤番士の野田市左衛門成方の著書「裏見寒話」には「八日町に続いて大商家あり」と記されており、城下の中心的商業街として栄えていたことがうかがえます。明治に入ってからも発展を続け、柳町の回でご紹介した有信銀行の前身である有信貯金銀行や大森銀行といった金融機関も、三日町が開業の地となっています。

 また、三日町は文化を発信する町でもありました。桜座に次ぐ大劇場として栄えた巴座という劇場は、昭和5年に甲府キネマハウスと改称し、活動写真(映画)館となって洋画を中心とした興業を行いましたが、富士館や甲府劇場といった映画館もあったとのことですから、当時の賑わいは相当なものだったと予想されます。どうやら三日町は戦後の春日通りや銀座通りのような存在だったようですね。

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▲大正7年の三日町通り。右側の建物が富士館

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▲富士館跡は駐車場となっている

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▲現在の三日町通り

 三日町通りの東側にある秋葉神社の広場は、もともと西教寺というお寺の境内で、祠は本堂の傍にあり、地元の人たちから「秋葉さん」と親しまれていました。本堂と祠は両方とも空襲で焼けてしまいましたが、戦後、地元の方が祠を復活させたのが現在の秋葉神社となります。神仏混淆の影響でお寺と神社が同じ敷地内や隣同士にあるのはよく見かけますが、祠だけが残るのは珍しく感じます。そのような成り立ちから、秋葉神社には「秋葉三尺坊大権現」という火伏せの神様が祀られており、現在では西教寺と関わりがあった教安寺の住職が、8月末に行われる「秋葉さん」のお祭りの日にお経をあげているようです。

 敷地の南側には墓地が残っており、こちらも教安寺が管理をしているとのこと。実はこの墓地に「荒城の月」で有名な作詞家、土井晩翠氏の筆による歌が刻まれた石碑が存在します。石碑には「迪幽小尾先生之碑」とあり、側面に「天上の 白玉楼に 聿(ふで)揮ふ 君の影見る 秋の夜の夢 晩翠」と刻まれています。あまり知られていませんが、小尾先生とは甲府出身の画家で、仙台で創作活動をしている時に土井晩翠に絵を教えていました。ところが持病の地方病が悪化し、療養のために甲府へ戻ったものの回復は難しく、そのまま帰らぬ人となります。38歳という若さでこの世を去ることになった小尾迪幽画伯。もし短命でなければ、山梨県を代表する日本画家として、県民誰もが知っている存在になっていたかもしれません。

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▲秋葉神社の祠

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▲小尾画伯のお墓と石碑

 現在の三日町通りには、昔のような賑わいはありませんが、戦後間もなくに建てられた建築物が多く残る影響か独自の雰囲気を醸し出しており「きれいに文化の、しみとおっているまちである」と甲府を紹介した太宰治の言葉を思い出しました。もし私が若い世代に「甲府に住みたいのですが、オススメの町はありますか?」と聞かれたら「三日町はどう?」と答えたくなる。今回の取材を通じてそう感じました。

文:川上明彦


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築60年ほどの民家を改装した店内で、アートや音楽を身近に感じながら美味しい食事やお茶が楽しめます。
過去にも未来にも繋がっているような空間は三日町だからこそ。
のんびりと寛ぎの時間を過ごしたい時にオススメです。

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cafe & gallery 富雪

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■参考資料:甲府街史、甲府市統計書、山梨百年、Wikipedia