旧町名を復活させたい 〜太田町、湯田町〜
今年も8月がやってきました。終戦記念日のある8月は平和について考える大切な時期です。未来を担う子ども達のためにも、どこか遠い国の出来事ではなく自分のこととして、戦争について真剣に考えたいと思います。
さて、今月は太田町、湯田町について調べていきましょう。
太田町は明治5年、それまで一蓮寺地内町や門前町などと呼ばれていたのを改めて命名されました。この地に古く太畑という集落があったことに由来しているとのことで、畑から田んぼへと変わった理由は分かりませんが、面白い由来ですよね。太田町と聞いて遊亀公園が真っ先に浮かぶのは私だけではないと思います。隣接している動物園で遊んだり、正の木さんへ行ったりと、甲府市民であれば何かしらの思い出が必ずあるのではないでしょうか?
しかし、公園がもともと隣接している一蓮寺の敷地だったということは、意外と知られていない気がします。一蓮寺はもともと稲積神社と一緒に一条小山にありましたが、甲府城が一条小山に築城されることを受けて、現在の場所へと移されました。遷寺された当時の広さは1万2千坪ほどあったとのことで、東京ドームの広さが約1万4千坪と考えると、広大な敷地だったことがうかがえます。遊亀公園が開設されたのは明治13年で、一蓮寺敷地内の約1万坪を県が接収してつくられました。時代は明治へと入り急速な近代化が進む中、神仏判然令によって長い間の神仏同一視の時代が終わり、各地で寺有地の土地処分が行われた流れによるものだそうです。ちなみに明治の頃、甲府で最も大きな本堂だった一蓮寺は山梨県議会議場として利用されたとのこと。その後、公園は県から甲府市へと譲渡され、大正13年に動物園が開園しますが、日本で3〜4番目に出来た歴史ある動物園ということです。
遊亀公園という名称の由来は、北にある舞鶴城公園に対して、亀が遊ぶ南の遊亀公園となったことや、一蓮寺の住職で遊行(ゆうぎょう)尚人がおり、境内の池に亀がたくさんいたので尚人の遊と亀をくっつけて遊亀としたなどの諸説があります。遊亀公園を中心とした太田町は近代化の波と共に製糸、製菓、鉄鋼、水晶加工などの工場がつくられ発展していきます。ワインで有名なサドヤの創業の地も太田町で、洋酒やビールを扱う代理店として店を構えていたようで、その後、店舗の跡地には南甲府警察署ができ、現在は保健所となっています。
▲明治中期の一蓮寺。大きな本堂が見えるが甲府空襲によって焼けてしまった。
▲明治40年代の稲積神社。
▲昭和12年に遊亀公園で行われた芸妓さんの撮影会の様子。
湯田町はもともと甲府城内の追手門前辺りにあり、湯が湧き出ていたことから湯田と呼ばれました。追手門とは旧県民会館の辺りにあった甲府城南側の正門といえる大きな門になります。その後、甲府城築城に伴い付近の民家と共に現在地へ移されました。
以前より温泉街ではないのになぜ「湯田」なのか疑問でしたが、なるほど納得です。ただ、当時は田畑が広がる稲門村の一部であったこの地域に、なぜ湯田という町名を移したのかは調べても分かりませんでした。ご存知の方がいたらぜひご教授ください。
昨年の8月号で甲府空襲で焼け残った湯田小学校の正門をご紹介しましたが、小学校と共に甲斐清和高等学校の存在も湯田地区の発展に欠かせない存在だったのではないでしょうか?
甲斐清和高等学校は、明治33年に伊藤うたが代官町で山梨裁縫学校を設立したことから歴史をスタートさせます。その後、明治39年に現在の場所へと移り、山梨女子実科学校、甲府湯田高等女学校と名称を変えつつ発展し、現在に至ります。40代の私には、甲府湯田高校という女子校のイメージが強いですが、現在は男女共学となっています。大正後期の地図を見ると、田畑の中に湯田小学校、女子実科高等学校があり、その北東側の東青沼町には甲府市立商業学校が見えます。当時の湯田町は学園都市?村?だったのですね。
昭和に入ってからも学校と田畑が中心で民家は少なかった湯田町、市民の憩いの場としての公園が中心だった太田町ですが、なぜか甲府空襲では1番被害を受けた地区となってしまいました。資料によると、空襲で焼失した湯田地区の家屋は約3,870軒、死者は395名とありますが、地区の被害だけでなく、荒川や甲斐清和高校南側を流れる天神川に浮いた無縁仏や、家族全員が被災して引き取り手が無いご遺体を市内一円から遊亀公園に集めて焼き、その後一蓮寺に葬ったそうで、空襲によるあらゆる悲惨な光景が広がっていたと想像できます。
冒頭で書いた通り、8月は平和について考える大切な時期だと思います。そしてその思いを後世に繋げていく必要があります。終戦記念日に遊亀公園を歩きながら、自分に何ができるのかを考えてみるのも良いかもしれませんね。
文:川上明彦
金座市場