旧町名を復活させたい 〜若松町〜
4月下旬、山梨県立大学にて「甲府の旧町名を考える」という講義をさせていただきました。今までも何度か大学でお話しさせていただく機会はありましたが、旧町名に関しての講義は初体験でした。まだまだ勉強途中の私が教壇に立つなど大変僭越ではありましたが、貴重な経験をさせていただきました。
県立大学の学生さん達は大変真面目で、とても熱心に話を聞いてくれ、ホッとしました。何よりも旧町名を通じて、甲府の歴史に興味を持って貰えたことが嬉しいです。今後も「旧町名を後世に伝える」活動を続けていきますので、応援をよろしくお願いします。
さて、今月は若松町について調べていきたいと思います。
若松町は江戸時代に甲府城下町のひとつだった西一条町と、信立寺地内町とが明治9年に合併して成立した町で、昭和の大合併で区割りは大きく変わったものの、現在も残っている貴重な町名です。町名の由来は「新たな繁栄を願って」と命名されたとのこと。
私が若松町と聞いて最初に思い浮かべるのが「若松座」です。若松座の前身は関東八座の一つと言われた亀屋座で、明和1(1764)年に亀屋与兵衛が光澤寺境内に仮小屋を建て、三季芝居を願い出たのがはじまりとなります。二年後に金手町の教安寺に移し正式に免許を受け、その後、享和3(1803)年に火災のため西一条通りに移転します。大劇場として江戸歌舞伎の興業が相次ぎ、文政5(1822)年には市川海老蔵(七代目団十郎)が松本幸四郎などを伴って甲府公演を行っています。
ご存知の方も多いでしょうが、初代市川団十郎は旧三珠町の出身ですから、この甲府公演は七代に渡っての凱旋公演ということになりますね。このころは甲府公演の出来具合で役者の給金が決められたという話があり、小江戸として繁栄している様子が伺えます。若松座と改称されたのは明治16年。株式組織になったことがきっかけだったようですが、その後、三井座(後の桜座)や火災の影響などもあり、明治中期に姿を消すこととなります。
また、芸事つながりと言っていいのか分かりませんが、若松町は芸者の町でもありました。明治25年12月の県議会で置屋税や芸者税が決まり、2年後に春日町、桜町にあった置屋が若松町へと移転させられたことで「若松芸者」は生まれました。芸者さんは礼儀作法から三味線、舞踊等の芸事を一流の師匠に教え込まれたそうですから、日本文化の担い手といえる存在だったと思います。全盛期となった昭和初期には芸者さんも400人ほどいたようですが、やがて戦争となり芸妓組合は解散したとのこと。
大正後期の地図を見ると、濁川から南側、遊亀通りから東側が若松町となっており、その中心に大きくあるのが信立寺です。
このお寺は大変由緒正しく、建立には武田信玄の父親である信虎が大きく関わっています。
面白いのは、もともとは信虎によって古府中の穴山小路(現在の武田1〜2丁目辺り)に身延山久遠寺第十三世日伝上人を招いて開山し、「真立寺」と名付けられたのですが、武田家が滅んだ後に徳川家康が甲斐へ入国した際、草創の由来から信虎の「信」の字をとって「信立寺と改めるべき」と薦めたことから信立寺になったとのこと。現在の場所へと移ったのは、やはり甲府城築城の時で、その後も身延山久遠寺の府中宿寺として位置付けられ、身延別院などと称されたそうです。
また、このお寺には江戸時代後期に活躍した俳人、辻嵐外のお墓が存在します。辻嵐外は越前の国敦賀(現在の福井県)の出身で、青年時に甲州の俳人、五味可都里を頼って移り住み、住まいを何カ所か移しながら、没年まで甲州で過ごしました。超俗洒脱な人柄で知られ、多くの門弟を育て、後の甲州俳壇に大きな影響を与えたそうです。
偶然にも山梨県立文学館にて特設展が6月19日まで開催されています。ご覧になってはいかがでしょうか?
ところで若松町の北側を東西に流れる濁川が、明治初期まで甲府の中心に荷物を運ぶための流通路として利用されていたことはご存知でしょうか?
舟は現在の市川三郷町辺りから笛吹川を逆流し、小瀬スポーツ公園の東側を北上し、砂田町で西方向へと折れ、旧深町へと入っていったようです。舟は現在の笠森稲荷神社の辺りで荷を降ろしていたと思われますが、富士川舟運で駿河から運ばれてきた塩や魚が、こんな甲府の中心地まで舟で運ばれてきていたとは驚きです。
江戸時代に若松町の濁川にかかる土橋際の現在地で創業した老舗「うなぎ 割烹 黒駒楼」も、この流通路を使ってうなぎを仕入れていたようです。
この流通路が確立されるまでは、甲府庶民の食膳にうなぎはのぼらなかったそうなので、鮮度を保つスピーディーな流通経路として画期的な存在だったと思われます。明治期の大火でさまざまな資料が焼けてしまい定かではありませんが、黒駒楼という名称の由来は甲州の侠客「黒駒の勝蔵」の名にあやかったとも言われています。
若松町には山梨県民ならば誰もが知っている桔梗屋という老舗も存在します。平成28年4月22日。桔梗信玄餅発祥の地に「甲府本館」がグランドオープンしましたので、黒駒楼と合わせて寄ってみてはいかがでしょうか?
文:川上明彦
一実(いちじつ)さん
もともと信立寺の守護神として一体の存在でしたが、明治維新の神仏判然令により独立し、一実稲荷神社となりました。若松町民の氏神さんという存在で、「一実さん」として親しまれています。
一実とはどういう意味なのかと調べてみたところ「仏語。絶対平等の真実。真如。」(国語辞典)だそうで、信立寺の守護神という立場からか仏教から名称が来ているようです。面白いですね。
参考資料:甲府街史、甲府市統計書、山梨百年、Wikipedia、山梨県HP