旧町名を復活させたい ~山田町~
甲府市役所の数野さんをゲストに招き開催した「旧町名を復活させたい!トークイベント」。
おかげさまで楽しい時間を過ごすことができました。
ご参加いただいた方々はもちろんのこと、紅梅通りにちなんだオリジナル和菓子で
文字通りイベントに華を添えてくださいました凮月堂さん。心から感謝申し上げます。
当日は数野さんが先生で参加者が生徒、私が生徒代表でさまざまなお話を伺うというスタイルで進行しました。メーンの話題は甲府城下町のひとつ「山田町(ようだまち)」です。
山田町は柳沢吉里が甲斐の領主になる際に付けられたもので、それ以前は伊勢町という名称でした。柳沢吉里の官途名(かんどな)が「伊勢守(いせのかみ)」だったため、領主と同じ名前では恐れ多いと町の人達が話し合って決めたそうです。
では、山田町という名称はどこから来たのでしょうか?実は本家の伊勢神宮の門前町に山田という地区があり、「伊勢」の門前町である「山田」ならば失礼が無いだろうということで命名されたとのこと。しかも本家山田も「ようだ」と訛って呼ばれていたようで、発音も含めて拝借したようです。このエピソードは今では考えられない領主と町民の関係性や町と伊勢神宮との強い精神的な結びつき、当時の方達のセンスが感じられます。
では、そもそもの伊勢町とはどこからきているのでしょうか?それは横近習町に建てられた伊勢社である大神宮が大きく関係しています。当時の伊勢町には御師の旅所がありました。御師とは特定の寺社に所属し、参詣者を案内、参拝や宿泊などの世話をする者ですが、その方々が寝泊まりする出張所のような施設が旅所となります。当時の山田町は伊勢神宮と精神的な結びつきだけでなく、御師を通じて物理的な繋がりも強くあったということですね。
ちなみにこの大神宮は甲府城下町が整備される際に今の場所へ移ってきており、武田信玄公の時代は躑躅ヶ崎の館の近くに在りました。常に政の中心となる地の近くに大神宮は存在し、人々の心の拠り所になっていたことが分かります。それを知ると、あらためて大切にしなくてはと感じます。
現在は甲斐奈通りと呼ばれている当時の山田町通りは、甲州街道のひとつ裏側という特性から一般消費者向けのお店ではなく、味噌や醤油、お酒などの卸問屋が多く存在したことが、1854年に刊行された「甲府買物独案内(こうふかいものひとりあんない)」からうかがえます。この書物は当時のタウンガイドのようなもので、甲府城下町の賑わいを伝える資料のひとつです。
この他にも数野さんは、地名のルーツと人々の祈りというテーマでさまざまなお話を聞かせてくださいました。かたい話題だけでなく、当時の庶民の文化や価値観に触れ、楽しく知識を身につける場をつくってくださいました。
▲昭和初期の山田町通り
▲現在の甲斐奈通り
正直なところ、ご参加いただくのは年配の方が100%と予想していたのですが、私より若い世代もちらほらとご参加いただき、嬉しい驚きとなりました。もっともっと若い人達に古き良き日本人の価値観を知ってもらい、旧町名を復活させたい!という思いが世代を超えた共通認識になれば嬉しいです。またこのような機会を設けたいと思いますので、その際はぜひご参加ください。
文:川上明彦
▲大勢の方にお越しいただきました
▲凮月堂さんのオリジナル和菓子