旧町名を復活させたい 〜佐渡町、代官町〜

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大久保長安(天文14〜慶長18年)
江戸時代初期の幕臣で金山奉行。
猿楽師の父、信安と播磨国(現兵庫県姫路市)から甲斐国へ流れ、武田信玄公のお抱えとして仕える。その際、長安は猿楽師ではなく家臣として取り立てられ、武田領国における黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事。
武田家滅亡後、徳川家康に仕え経理の才能を発揮。
関ヶ原の戦い以降は大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官などを兼任する。

2013年9月号で、私ども「株式会社ニュースコム」の本社がある相生の歴史について触れました。
昭和の大合併を機に泉町、西青沼町、二十人町が相生1丁目に、相生町、泉町、二十人町、代官町、佐渡町が相生2丁目に、伊勢町、三吉町が相生3丁目になったとご紹介しましたが、今回はその中の佐渡町、代官町、二十人町の歴史を紐解きたいと思います。


佐渡町の由来は、この地に大久保長安が甲州金鋳造所を建て、佐渡から金工を移住させたことにあると「甲府略史」に記されています。完全な外様でありながら、徳川家康の信頼を得て「天下の総代官」と称されるまで出世した大久保長安を知る人は多いですが、甲斐の国にこれほど縁があったことはあまり知られていない気がします。
大久保長安は金山開発や経理だけでなく、測量でも才能を発揮しており、一里=三十六町、一町=六十間、一間=六尺という基準も整え、甲斐国総検地で近世的村落成立の基礎も築いています。
甲斐の代官としての事務所は佐渡町の西隣にある代官町に構えており、それが町名の由来とのこと。

その他、代官町には与力や同心の屋敷もありました。与力とは町奉行を補佐する役職で、行政、司法、警察の任にあたり、同心は与力の下で庶務や見回りなどの警備を行っていました。代官町の更に西隣となる二十人町は、同心20人の組屋敷が設置されたことに由来します。

甲府城南方の郭外に位置するこれら3つの町は武家屋敷地であり、町名がその由来を伝えています。そのためでしょうか、明治期になると町の様相は大きく変化をしていきます。
佐渡町には、明治27年に三日町に創立された甲府米穀取引所が移転をし、大正12年には繭市場として丸三甲府繭糸商会が開設され、甲府、西山梨郡、中巨摩郡東部の産繭を一手に握り繁盛しました。
代官町には明治42年に相生小学校が建設され、相生町にあった本校、舞鶴城舞鶴館の仮教室、子守学校全児童1,200名が移ります。
昭和初期までは甲府市南部の伊勢町が発展する影響を受け、3つの町の人口は増加の一途を辿りますが、甲府空襲で全焼してしまいます。

昔の地図には弊社より北側の道が記されていない。道が無かったのか?小さな道だったので記さなかったのか?
昔の地図には弊社より北側の道が記されていない。
道が無かったのか?小さな道だったので記さなかったのか?

甲府商工会議所の東側の通りが佐渡町となる。佐渡町通りと命名してはどうだろうか?
甲府商工会議所の東側の通りが佐渡町となる。佐渡町通りと命名してはどうだろうか?

弊社前の道は「三吉通り」となっている。三吉町は佐渡町、代官町の南側にあった町。
弊社前の道は「三吉通り」となっている。三吉町は佐渡町、代官町の南側にあった町。

旧代官町を旧相生小学校正門から北側を写した。武家屋敷の面影は全く残っていない。
旧代官町を旧相生小学校正門から北側を写した。武家屋敷の面影は全く残っていない。

二十人町児童公園。春は桜が美しい公園。
二十人町児童公園。春は桜が美しい公園。

様々な資料を探しましたが、残念ながら明治から昭和初期にかけての佐渡町、代官町、二十人町の写真を見つけられませんでした。もしかすると昭和初期ごろまでは武家屋敷地の面影が残っていたのかもしれないと思うと、空襲で焼けてしまったことが悔やまれます。もし当時の写真をお持ちの方がいらしたら、編集部までご連絡いただけると幸いです。

また、今回の取材を通じてあらためて、旧町名を後世に伝える存在が街中に見当たらないと気付きました。 二十人町に関しては、福徳稲荷社や二十人町児童公園が名残を伝えていますが、佐渡町や代官町は自治会の名称として残っているぐらいではないでしょうか?他の旧町名は道の名称として残っていたり、看板が置かれてたりするので、ぜひ佐渡町、代官町、二十人町も検討して欲しいですね。
私も旧代官町に社屋を構える立場として、出来ることを考えたいと思います。

文:川上明彦

ittemiloci

福徳稲荷社(甲府市相生1-1)

旧二十人町にある神社で、二十人町の歴史を後世に伝える貴重な存在。江戸時代は屋敷町内の各戸が順番に奉行していたが、明治維新後、特に大正に入ってからは組屋敷の住民の大半が移住したことから、町内会に寄進され、それ以降は町内会が町の守護神として奉行しているとのこと。 甲府空襲で焼失したが、昭和27年に町内の有志により再建された。