旧町名を復活させたい 〜双葉町①〜
2021年も株式会社ニュースコムと株式会社川上新聞店をよろしくお願いいたします。
引き続き地域の歴史を知り、地域に愛着を持って仕事に取り組みます。
さて、今月号は旧双葉町の歴史を紐解いていきたいと思います。
双葉町は昭和30年に、塩崎村と登美村が合併をして誕生しました。
町名の由来は「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」ということわざに因み、村の繁栄を願って命名されました。
ことわざの意味は、白壇(びゃくだん)は発芽の頃から早くも香気があるように、大成する人物は、幼いときから人並みはずれて優れたところがあることのたとえで、栴檀は白檀の異称とのことです。
平成16年9月に行われた市町村合併により、行政区分としての役割を終えた双葉町ですが、大字の多くは双葉町誕生以前の歴史を今に伝えています。
古代から中世にかけて使われていた、甲斐国から他国に通じる9つの道「甲斐九筋」。
旧双葉町には「穗坂路」が通っており、武田信玄公が甲斐国を治めていた時代は、信州方面への戦略上、大変重要な道でした。
信玄公は釜無川や笛吹川の治水事業や、開墾による農業の拡大を推し進めながら、信州への進出を画策します。
その戦略の中に、地蔵ヶ原という台地上に散らばって生活をしていた竜地村の人々を集め、竜地新町(宿)をつくるというものがありました。
穗坂路の途中にある竜地宿は、信州への進出を果たすため、重要な拠点になると考えていたからです。
信玄公は竜地宿の住民に対し屋敷年貢、租税や課税、様々な臨時税などを免除し、代わりに平時は農業を営んで生活をしつつも、戦時には軍役に出動することを命じました。
このことにより住民の生活は大変楽になり、竜地宿は栄えたそうです。
信州侵攻への重要な拠点をつくりつつ、農業の振興と軍隊強化を狙った一石三鳥の戦略。さすが信玄公ですね。
しかしこの竜地村は、農業に適した土地とは言えなかったようです。
茅ヶ岳南麓は昔から水に乏しく降水量もわずかで、最南端に位置する竜地村は最も水に恵まれない高燥地帯。江戸時代に楯無堰がつくられてからも、末流のため干ばつに苦しめられました。
どうやら竜地という地名の由来は、この水不足の環境が起因しているように思えます。
竜とは中国から伝来し、日本で独特の解釈を経て、水や雨の神様として信仰され、干ばつが続くと竜神に食べ物や生け贄を捧げたり、高僧が祈りを捧げるといった雨乞いが日本全国で行われていたそうです。
定かではありませんが、水神である竜にあやかり、竜地と呼ばれるようになったのではないでしょうか?
さて、生活を豊かにしてくれた信玄公の遺徳を偲んでいた竜地新町の住民は、諏訪神社の境内に武田社を建立。信玄公を祭神として武田不動尊を祀りました。
干ばつになると武田不動尊を神輿に乗せて練り歩き、貢川に沈めるという雨乞いの神事を行っていたそうで、神輿が神社に戻るころには雨が降り始めたと言い伝えられています。
また、この諏訪神社の石櫃には、信玄公が竜地新町の税免除を約束した文書「竜地文書」が長い間保管されていたとのこと。
諏訪神社拝殿の両脇に置かれている水盤のような石。どうやらこれがもともと1つの石櫃だったようです。
石櫃とは現代の金庫のようなもので、上下で組み合わせ、四方に鎖を通して鍵が掛かるようになっていました。
(次号につづく)
文:川上明彦