旧町名を復活させたい 番外編~躑躅ヶ崎~
2019年は「こうふ開府500年」の年です。
この節目の年をきっかけに、地域の歴史を知り、誇りを持ち、これからのまちづくりについて考えることが、未来を担う子供達のためにも重要。甲府の街を良くするも悪くするも、現代に生きている我々の行動ひとつで変わっていくのだと、歴史を紐解く度に先人の方々から教えられます。
嬉しいのは、読者の皆様から「私もそう思う」と共感の声を多くいただくことです。ぜひ、街の歴史を知らない方が周りにいましたら、伝えていただければと思います。
さて、2018年は市内各地で、こうふ開府500年に関わるイベントが数多く開催されました。私も「旧町名を復活させたい!」を連載していたことから、様々な場所で関わらせていただきました。いろいろな方とお話しする機会をいただいた中で感じたのが、開府の祖である武田信虎のことは、あまり知られていないということでした。
また、信虎は信玄に駿河へ追放されたと広く知られていることや、ドラマなどでも暴君として描かれることが多いことから、悪いイメージを持っている方も少なくありませんでした。かく言う私も、信虎についてはあまり知りません。
そんなことから今回は、2019年のこうふ開府500年イヤーを迎えるにあたり、甲府の開祖である武田信虎について掘り下げたいと思います。\(^O^)/
武田信虎は明応3(1494)年に、武田氏の第17代当主である信縄の嫡男として生まれました(※明応7年生まれの説も有り)。初名は信直(のぶなお)とのこと。
この頃、甲斐の国は守護武田氏と穴山氏、東郡の栗原氏、西郡の大井氏など有力国人勢力や、駿河国の今川氏など対外勢力との抗争が発生していましたが、加えて武田宗家の家督争いもあり、正に戦国時代の様相を呈していました。誰が味方で、誰が敵なのか分からない中、幼い信虎は何を感じて育ったのでしょう?私なら人間不信になってしまいます。(^_^;
その後、永正4(1507)年に武田家当主となり、翌年には叔父の信恵を滅ぼして武田宗家を統一。明応3年生まれであれば、信虎はまだ14歳です。そして、甲斐統一を目指した抗争が一段落となった永正16(1519)年、甲府盆地北部の扇状地に、新たな本拠となる「躑躅ヶ崎館」を構えます。
甲府市が発行し、全戸配布を行った「こうふ開府500年の歴史」にも、これらの件は掲載されています。誌面に掲載されている、躑躅ヶ崎館跡(現武田神社)上空からの写真を見れば、この地に館を築いた信虎の意図は一目瞭然。南側以外の三方を山に囲まれたこの場所は、正に要害と言えます。
今月号のマチコレ!の表紙は「武田神社(躑躅ヶ崎館跡)」の参道側入口から見たものですが、こちらは大正8(1919)年の神社創建の際につくられたもので、当時の大手門は東側にありました。
築城当時も、出入口は南側の方が便利だったと思いますが、守りを考えて敢えて東側に造ったのだと思います。この地にこのような館を造ったのも、幼い頃からの経験が活かされているのだと、あらためて頷いてしまいました。
信虎は躑躅ヶ崎に府中を移してからも、自らの地位を確立するため、国内外との勢力争いや外交活動を続けましたが、その手法は強引で、不満を持つ家臣も少なくなかったとのこと。特に駿河の今川氏との同盟は多くの反発を招き、奉行衆が甲斐の国を退去するという事件も発生しました。また、信虎は嫡男である晴信(信玄)の弟である信繁(のぶしげ)を寵愛しており、晴信を廃して信繁に家督を譲るつもりだったという逸話もあります。結局はこれらの行いが、甲斐の国を追放されるという事態に繋がってしまいます。
天文10(1541)年6月14日、信虎は同盟を結んでいた駿河へと出立します。このとき嫡子の晴信は、国境を封鎖し、同16日に信虎の追放を発表しました。突然強制的に隠居させられた信虎。どうやら晴信は事前に駿河の今川義元と入念に打合せ、計画を実行したようです。信虎も素直に追放を受け入れたとは思えないので、おそらく最初は駿河で軟禁状態だったはずですから、今川義元も晴信を支持した事になります。ここで家督を継いだ晴信が、甲斐国の統治に失敗すれば、今川氏も信虎の復帰を支援し、帰甲することが出来たのでしょうが、甲斐国内でも混乱は全く起こらず、無血クーデターは完遂されてしまいました。その後も晴信は、翌天文11(1542)年に諏訪氏を滅ぼし、順調に領国を拡大していきます。
ちなみに信虎の追放によって家督を継げなかった信繁。本来であれば、父親を追放した晴信との確執が生まれてもおかしくないのですが、家督を継いだ晴信に武田家の副将としてよく尽くします。もしかすると、信繁も信虎のやり方に不満を持ち、自分よりも晴信が家督を継ぐ方が相応しいと考えていたのかもしれませんね。
永禄4(1561)年。第4次川中島の戦いで討死となりますが、信玄が遺体を抱きかかえて号泣するという逸話が残されており、兄にとっても大きな存在だったことが分かります。
また、武田家臣団から「惜しみても尚惜しむべし」と評されたり、敵軍の上杉謙信までもがその死は惜しんだとのこと。江戸時代においても「真の武将」と評され、大変人気があったようです。
さて、これまでの話だと、やはり信虎は暴君で、追放されたのも当然だという印象ですが、隠居後の信虎の記録は、違った人物像を感じさせられます。天文12(1543)年、信虎は京都を訪れました。出家をして「無人斎道有(むじんさいどうゆう)」と名乗っていたことから、隠居を受け入れる心境にあったのでしょう。この時は京都南方を遊覧することが目的でしたが、後に京都にも屋敷を持ち、継続的に奉公を行っていたようです。また、同じ甲斐源氏の一族でもある南部信長ら諸大名や、山科言継や飛鳥井雅教、万里小路惟房ら公家との文化的交流も行っており、京都での足場を築いていきました。
ひとつ驚いたのが、私は「追放」という言葉から、信虎と晴信は絶縁状態と思っていたのですが、晴信は今川氏へ、信虎の隠居料を追放直後から送っていた可能性が高いとのこと。息子から仕送りをされ、駿河や京都で文化的な活動をしている信虎。幼いころから、争いの絶えない日々を送ってきたことを考えれば、隠居生活は人生で1番幸せな時期だったように思えるのは私だけでしょうか?
次号へつづく
文:川上明彦
甲府駅北口には、こうふ開府500年に合わせ、甲府商工会議所が武田信虎像の設置を企画しました。信玄像は甲府駅南口に、勝頼像は甲斐大和駅前にありますから、これで武田3代全ての銅像が県内に設置されることとなります。
12月に除幕式を行うということですので、この号が出た時には、既にお披露目がされていると思います。
武田神社へ初詣に行く際に、立ち寄ってみてはいかがでしょうか?