路線バスでゆく かいゆうほ〜若彦路編(3)〜


 北海道地震で被災された方々に対しまして、心よりお見舞い申し上げます
 無いことを心から願いますが、甲府市が被災地になった場合、我々が地域のために出来る事を真剣に考え、準備をしようとあらためて思いました。
 私たちニュースコムは、地域の方々に必要とされる企業を目指し、安心・安全の見守りサービスや、健康を守るための情報提供、子ども達の教育に力を入れつつ、今後も活動していきたいと思います。

 さて、これからの高齢社会で、大変重要な役割を担うであろう路線バス。もっと路線バスの事を知り、利用していただき、潤いのある生活を送っていただきたいという思いを持ち、このコーナーを連載しております。
 今月号も引き続き、甲斐の九筋のひとつである、若彦路の面影を探して「かいゆうほ」です。\(^O^)/



 八代四ツ角バス停から、県道313号線を南西に向かって150mほど進み、3mほどの幅の道路を右折。
 更に150mほど進むと、左手に歴史を感じる建物「八代町郷土館」が現れます。


こちらは、村内一の地主であった大森慶二郎氏の武家風様式の邸宅で、明治18年に建てられたものです。(・o・)明治32年に大森銀行八代支店として、本館の一部と土蔵を店舗として営業されていましたが、昭和11年に第十銀行(現在の山梨中央銀行)に合併されました。
 その後、旧八代町に寄贈された建物は、資料展示のため内部を改修し、昭和52年4月から八代町郷土館として開館し、収集した民族資料を中心に公開しはじめました。
1階には大森銀行の資料や考古資料、当時の生活資料などが展示されており、2階では農機具や養蚕用具などを見ることができます。


 昭和61年には、地域を代表する江戸中期の農家が移築復元されており、幅広く地域の歴史を伝える役割を担っています。
 あらためて子ども達を連れて訪れたいと思います。

 バスは笛吹市役所八代支所バス停へ。
バス停から南側へと上り、八代支所前交差点を左折。暫く進むと熊野神社へと到着です。


 約1,330年前に紀州熊野の神を迎えて建てられた熊野神社。甲斐国熊野四所の第一の霊場で、県指定文化財の銅鏡、市指定文化財の長寛勘文(ちょうかんかんもん)、熊野曼荼羅などが保存されています。
 大きな拝殿は、明治23年に甲府の一蓮寺(甲府市太田町)を中心に開催された博覧会で、皇族を迎えるために造った大会議場を移築したもの。(写真:1)
 本当は博覧会終了後に取り壊す予定だったのですが、明治18年に熊野神社の拝殿が焼失していたことから、地元の方が買い取ったそうです。
 明治18年の火事では、拝殿の左側にある御神木のコウヤマキも幹の東半分が焼けてしまい、その傷跡は今も残っています。


 市指定文化財の長寛勘文とは、長寛元年(1163)に甲斐守藤原忠重らの熊野神社領甲斐八代荘の侵犯を、熊野所司が提訴した記録で、いわゆる裁判記録です。結果は国司側が敗訴しており、同年4月7日に甲斐国司ら3名を絞刑にすべきと書かれているようで、全国的にも珍しい資料とのこと。
全盛期の敷地はもっと広く、大きな力を持っていたことは、境内に足を踏み入れるだけで伝わってきますが、神秘的な雰囲気と同時に、地元の方達を包み込むような暖かさも感じさせられる熊野神社。
 またひとつお気に入りの神社が見つかりました。(^_^)

 八代支所前交差点を右折し、お蕎麦屋さん手前の交差点を左折。右手に土蔵が見えるひとつ目の交差点を右折し、30m程進むと、地蔵塚古墳が右手に現れます。


 6世紀後期につくられた周囲109m、高さ9.2mの横穴式古墳で、南向きにある横穴の中は、壁も天井も石が敷き詰められています。
 横穴に地蔵尊の立像、座像各1体が安置されていることから、地蔵塚と呼ばれるようになったそうで、石室はほぼ完全な形で残っており、非常に貴重な資料といえます。石室の中は思った以上に広くて驚きましたが、真っ暗なので、ちょっと怖いかも。(^_^;)


 それにしても、6世紀につくられた古墳と、7世紀につくられた熊野神社が、これほど近い距離に存在し、しかも21世紀まで残り続けているとは、とても素晴らしいことですね。
(次回へつづく)

文:川上明彦

参考資料:Wikipedia、八代町史跡めぐり「若彦路を歩き、武田氏を偲びつつ、取れたてブドウに舌鼓」(山梨県教育委員会博物館建設室発行)