第21回 元気をもらった津軽三味線

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腹の底を揺さぶるような激しくダイナミックなリズム。津軽三味線は「日本人の魂を呼び起こす奥深い音色」とも表現される。
 その激しさとは裏腹の出会いを、相川さんは静かに語り始めた。
 「20年前、突然妻を亡くしました。それまで子どものPTA役員など世間に対して積極的にかかわり、絶好調の人生だったのが途切れてしまいました」。
残された三人の男の子は末がまだ9歳。夜中に寂しくて泣き、添い寝をしてあげる毎日となった。相川さん自身も内に閉じこもっていた。
 そんな時、ラジオから『小沢昭一的こころ』で山本直純作曲の三味線の曲が流れてきた。心に響いた。「弾いてみたい。でもどうやって?」。書店で本を探していると肩をたたかれ、その人の名刺には『三絃士=三味線の製作』とあった。


 偶然というか、運命の絆というかのきっかけで、まず民謡三味線から取り組むことになった。「そのうち欲が出てきて、バンバン弾く津軽をしたくなって、澤田勝司さんに師事するため、東京に通いました」と、以前のような積極性がよみがえってきた。
 
昔、東北地方で坊さんやごぜといわれる盲目の女性が銭乞いをするのに三味線を弾いたのが、津軽三味線のルーツだという。戦後になってその魅力が広められたというから、一般へ普及した歴史は浅い。しかし左手の手さばき、バチを胴の皮にぶちつける力強さでたちまちファンを虜にした。『日本のバンジョー』と呼ば
れたり、打楽器奏法を思わせるテクニックは、小気味が良いが「そこが難しいところなんです」という。

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相川さんは今、40人ほどの弟子を指導している。そして自らの将来について、「模倣は嫌だ。自由に自作を楽しみたい」と、様々な形態にチャレンジしている。武田節、粘土節などの編曲はもとより、武田節全国音楽祭では2人の太鼓を入れた10人のチームで、審査員特別賞を獲得。『侍Bowys』(あえてwを入れる)を結成して三味線、洋楽器、踊りのコラボレーションが評判になっている。

 こんなエピソードも。千葉で交通事故に遭った男性が石和の温泉病院でリハビリをした。そこに勤めていた先生が沖縄出身で、結婚して沖縄に住むことに。「地元に溶け込みたい」と三線(さんしん)を習いたいというので指導した。三味線との出会いも含め、思いがけない人との交流に「理屈ではない感動がある」と、人間に対しても興味が尽きないでいる。
 夏休みには、親子ペアに呼び掛けて缶からを材料にした、おきなわ三線創りを指導。お年寄りなどの施設に呼ばれれば、ボランティア出演。苔玉作り、陶芸にも手を出して、こちらも半端ではない。添い寝をした三男も結婚した。悲しみを乗り越えてフル回転だ。