第22回 戦争に突入、真実は覆われた

3月号に続いて、戦時中の新聞を取り巻く状況にもどります。
昭和12年に始まった日中戦争は拡大の一途をたどり、あらゆる面で統制が強化され、物資の欠乏も深刻だった。山日YBSグループが制作した年史によると、皮革、ゴム製品の使用禁止で履物業者が悲鳴をあげ、酒の醸造が2割減、電力も節約され
た。


統制は言論界にも及んだ。政府は新聞用紙配給の実権を得て新聞社数を減らし、統制を強化していった。山梨の場合15年当時、「山梨日日新聞」「山梨毎日」「峡中日報」「山梨民報」「山梨民友」「甲州時報」の6紙があったが、民友と時報はいち早く廃刊した。政府は「1県1紙の原則」を県知事に強く通達
し、残る4紙の合併が進められた。山梨日日は10月1日日報、11月15日民報、16年2月1日山梨毎日を合併して県内で1紙だけになった。
新聞用紙の総量も戦況につれ少なくなったことから、全国の新聞社は小さな活字を取り入れ1ページ13段を、14段、15段、終戦直後は18段にまで増段して記事量を確保した。時代は変わって山梨日日新聞は基本12段制にし、文字を大きくしてお年寄りに優しい紙面体裁にした。60余年の歳月は環境の変化とともに人々の欲求や発想を大きく変えていく。

16年全国の新聞社は極度に減らされ、政府は1月国家総動員法20条に基づき「新聞紙等掲載制限令」を発布。国策の遂行に重大な支障を生じるおそれのある事項などを掲載した新聞は、内大臣が発売禁止、原版も含めて差し押さえができることになった。国策に重大な支障とは㈰外交に関し重大な支障㈪外国に対し秘密にすることが必要な事項㈫財政、経済政策の遂行に重大な支障̶など。これにより政府に都合の悪いことは書けなくなった。12月には「言論、出版、集会、結社等臨時取締法」を発布。届出制だった新聞の発行を許可制に改悪した。

16年12月8日、ついに日本は米英に開戦した。その朝ラジオは西太平洋で戦闘状態に入ったことを伝え、新聞各社は号外や早刷りの夕刊で速報した。戦局は「大本営発表」という形で知らされたが、それぞれの戦いぶりは誇張され、損害はごく少なく発表された。新聞社は自由な取材・報道は一切できなくなり、国民は完全に真実から遠ざけられてしまう。
戦局が敗色濃くなった19年、大方の新聞は時の首相東条英機が国民に奮起を促す記事を掲載したが、1紙だけ「竹槍ではだめだ。海軍航空機でなければ」といった主旨の記事を掲載した。装備を整えて合理的な戦争をすべきという海軍が書かせた記事だったようだが、東条は激怒してその日の新聞を発売禁止ならびに差し押さえ処分にした。いわゆる「竹槍事件」といわれるものだ。