第19回 昭和初期、世情は騒然

甲府中学が甲子園へ
昭和に入ると5年12月、増穂の小林富士井銀行で取り付け騒ぎが起き、翌6年にかけて県内各地の銀行で続発した。6年4月には竜王村で小作争議が起き、船津村、右左口村、相興村(あいおきむら=一宮)でも続いた。同年5月1日のメーデーでは、甲府市内で参加者の一部と警官が衝突して検挙者が出るなど、世情は騒然とした。


一方で6年4月1日、中央線の甲府~新宿間が電化し、山梨日日新聞は、「車窓十景」「車窓十名所」を募集し紙面で発表するなど、近代化も進んだ頃である。

広く目を転じると、6年9月18日満州事変が始まり、右翼テロが相次ぐなど緊張状態が高まっていき、7年5月15日には軍部の青年将校たちが首相官邸、警視庁、政友会本部などを襲撃して犬養毅首相を射殺した。「5・15事件」である。これにより、政党内閣は終止符を打ち、軍部が政治の主導権を握ることになる。犬養首相が襲撃されて死亡したというニュースも内務省の圧力により、真相が報道できたのは17日になってからだった。

犬養首相のあと、暫定内閣後斉藤実首相の挙国一致内閣が誕生、「非常時」の名のもとに言論、思想の統制が一層強まっていく。国際連盟が日本に対し満州からの撤退を勧告すると、日本は8年3月国際連盟を脱退して世界から孤立の道を歩み始める。まだ新聞にはこのことを憂う個性的な論調が見られたが、確実に軍部の言論弾圧は強まっていった。

以後「2・26事件」、「日中戦争」と進み全面戦争への歩調を速めていくのだが、この間山梨には嬉しい出来事もあった。10年8月4日、甲子園の全国中等学校野球大会(現全国高校野球選手権大会)の地区予選で甲府中学(現甲府一高)が県勢として初優勝したのだった。当時は山梨、神奈川、
静岡で一校が出場できる狭き門で、始まって以来19年ぶりの快挙だった。
5日付の山梨日日新聞には「甲中軍晴れて甲子園へ」「強豪神工(注 神奈川工業)を抑え三県の制覇成る」「球場に爆発した狂喜乱舞」「中学球界十九年の宿望達成」と見出しは踊り、勝利の瞬間、観衆がベンチに殺到した様子の写真とともに球場の興奮状態を伝えている。

山梨日日新聞は11年4月10日紙齢2万号を迎え、様々な記念事業を展開した。1月県下児童書きぞめ大会を皮切りに、甲府観光祭で店員、車掌、旅館の女中さんなど優良従業員を表彰した。書きぞめは現在の山日YBS席書き大会に継がれており、従業員表彰は豊富な観光資源を基に、将来に向かって発展させようとする観光行政を民間からバックアップするものだった。