旧町名を復活させたい
平成25年9月号や先月号の取材で、昭和の大合併で無くなった甲府市の旧町名について調べる機会がありました。
私の両親は場所を説明する時に旧町名を使うことが多いので、昔はそういう名称だったということを何となく知ってはいましたが、名付けられた由来を知れば知るほど歴史的価値があると感じ、最近ではどうにか復活できないものか?と思えてなりません。特に江戸の後期から昭和初期までの時代は、当時の人達がとても生き生きと暮らしているように資料や写真から感じるので尚更です。
もちろん私が子供だった昭和50~60年代の甲府市中心街もとても活気がありました。しかし、戦後の復興という大きな目的の下で国民が一致団結していた時代と、これからの甲府市が進む方向性は違う気がします。
今後はますます少子高齢化が進み、特に地方では大きく人口が減少していくと言われています。それを食い止める意味でも、暮らしやすい甲府市を皆で作っていかねばなりません。先月号でも書いた通り、私はそのヒントがこの古き良き時代にあるような気がしてならないのです。
明治36年に中央線が開通し、甲府駅の営業がスタートしましたが、その後も着々と近代化が進んできたものの、昭和初期の甲府市はまだまだ城下町の様相を呈していました。その中で最も栄えていたのが「八日町」。
現在の甲府市中央2~5丁目となります。
江戸時代に長禅寺前で毎月八日に市が立っていたという理由から八日町という名前が生まれ、甲府城が築城され城下町を整備した時に甲州街道沿いに移したということです。八日町は「呉服屋、薬種屋、合羽屋なとあり、府中第一のよき所也」と甲府勤番士が書き留めているように、江戸中期から甲府でもっとも栄えた場所でした。
商業街の中心地として多くの人で賑わった八日町通りは、市の南部に甲府バイパスが出来るまで甲州街道として東京と甲府を繋ぐ役割を担っていましたから、旅人も大勢立ち寄ったでしょう。
また、明治31〜昭和5年まで鉄道馬車が走っていたということですから、人だけでなく物流の大動脈でもありました。当時の八日町での買い物風景を想像するとなると、私がまず浮かぶのは「印傳屋 上原勇七」です。
山梨県を代表する名産品の甲州印傳は300年以上の歴史と伝統があります。時代と共にさまざまな製品が生まれていますが、江戸時代に高級雑貨として珍重された巾着や胴巻、たばこ入れは、今も尚作られているようです。
もうひとつ触れなくてはならないのが、八日町は新聞発祥の地ということです。明治5年に今の山梨日日新聞の前身となる「峡中新聞(こうちゅうしんぶん)」がこの地で産声を上げました。平成25年12月号で「新聞発祥の地の石碑」をご紹介しましたが、これは昭和47年に山梨日日新聞社が創刊100周年を記念して建てたものです。
大正時代の写真を見ると、正月行事として卸売業者や商店などがノボリを立てた大八車で回り歩いている様子が伺えます。
上の写真は昭和初期の八日町通りの様子で、右側に見える洋館は甲州財閥の一人である若尾逸平がつくった若尾銀行とのこと。現在はNTTの山梨支店になっています。よく見ると道路の中央に鉄道馬車の軌道が見えますね。
こちらは逆から見た八日町通りです。左手に若尾銀行が見え、通りにはバスが走っています。鉄道馬車が廃止された昭和5年以降なのでしょうね。
残念ながら八日町は空襲で全てを焼かれてしまったので、当時の面影は残っていません。
また、当時の様子を知る諸先輩方も少なくなってきています。資料などである程度は調べられますが、私のように興味を持つ者でなければ、わざわざ調べることはないでしょう。
歴史を知ると、ますます甲府という町が好きになりますし、甲府市民として誇りを持てる気がします。
そして、その歴史を後世に伝えていきたいと思いますし、未来の甲府市民にも誇りを持って欲しいと願います。町名を戻すということは私個人でどうこう出来る問題ではないですし、行政が本気で動いたとして相当な時間と労力を費やすと思います。しかし、戻すことによって歴史も紐解かれるでしょうし、後世にも自然に伝わっていくことを考えると、その効果も期待できます。
例えば通称という形で復活できないかな〜?
そんな希望を抱きながら、このコーナーでは暫く古き良き甲府について触れていきたいと考えています。
若尾 逸平 氏 (文政3〜大正2年)
現在の南アルプス市(旧白根町)在家塚出身。横浜開港を機に生糸などの貿易で成功し、山梨県では最高の資産家となりました。
甲州財閥の名を全国に轟かせた人物の一人です。ちなみに初代の甲府市長でもあります。
明治40年に米寿を記念し、愛宕山中腹の若尾家の土地に銅像が建てられ、大正10年には若尾家によって若尾公園が建設されました。戦後は廃園となりましたが、現在はそこに山梨英和中学校・高等学校があります。