旧町名を復活させたい 〜元柳町、大工町、畳町、新柳町、増山町〜
先月号で取り上げた廣庭町の件で、読者様よりご指摘をいただいたので、訂正しお詫びいたします。
「山田宥教は真言密教の大応院の法印〜」は「大翁院」の誤りでした。申し訳ありませんでした。
上府中の旧町名を取り上げはじめてから、お問い合わせやご指摘をいただくことが増えました。知識の浅い私としては、大変助かっています。今後もお気軽にご連絡いただければ幸いです。
さて、今月号も2019年に迎える開府500年に向けて、上府中の町名について調べていきたいと思います。
元柳町は江戸期から昭和37年にかけての町名で、江戸期は甲府城下上府中26町のひとつでした。武田氏時代に造営された町ですが、新城下造営に際して下府中に町名を移し、古柳町と称し、のちに宝永元(1704)年の柳沢吉保の甲府入封に伴い、元柳町と改めました。慶長16(1611)年の古府中再縄打水帳には、柳小路と記されており、柳の並木道だったことからの命名だと推測されます。
写真①は現在の元柳町ですが、ご存知の通り武田神社の表参道として、桜の並木道になっています。大正10年の地図で「元」と「柳」の字の間にある東西の通りを探して歩きましたが、どうやら写真②がこの道にあたるようです。かなり細い道ですが、むしろそれが当時の面影を感じさせます。
奥へ進むと右手に日蓮宗上行山要法寺が現れます。要法寺は武田信玄公が次男「聖道公」の眼病祈願の為に開創された、由緒のあるお寺です。町内の細い道をウロウロしていると、自治会名の入った看板を発見。下府中では、旧町名の名残を通りの名で感じることができますが、上府中には名が記された看板は見当たらず、自治会名のみが面影を感じさせる存在となっています。
元柳町の南側は大工町です。こちらも江戸期から昭和37年にかけての町名で、甲陽軍艦では番匠小路と記されています。武田氏時代に造営された町のひとつで、甲府城築城に伴い新城下に組み込まれました。番匠とは木造建築に関わった建築工で、大工の前身にあたるとのこと。町名の由来は、武田氏により、職人の居住地として指定されたことによります。信玄公より授けられた「御免許御朱印」の威力を借りた同業組合が引き継がれ、甲府城築城に際しても幅をきかせ、その力は明治維新まで続いたそうですから、職人の町としての歴史は相当長かったことになります。
町内にある満蔵院は、大永2(1522)年に武田信虎が霊夢に感じ、清水寺として建立をしましたが、信玄の時代に毘沙門堂を建立し寺号を正覚院と改称、天正13(1585)年に毘沙門堂を清水寺に移し、2寺を合わせて満蔵院と名付けたそうです。
甲府城築城に際し、境内地の大部分が三の堀に没したとのことですが、おそらく寺院の北側にある通りが三の堀を暗渠化してつくられたものだと思われます。
大工町より一本西側にある南北の通りが畳町になります。江戸期から昭和37年にかけての町名で、武田氏時代に造営された町のひとつです。町名の由来は大工町と同じく、武田氏時代に畳職人の居住地として指定されたことによります。大工町と大きく違うのは、甲府城が築城されてからは、職人のほとんどが下府中へと移っており、寛延4(1751)年に畳職人は全くいなかったそうです。大正10年の地図では、三の堀が町を東西へ横断しているのが見えます。ほとんどが暗渠化されている三の堀ですが、畳町でははっきりと確認することが出来ます。
現在の武田三丁目の信号を西側へ進むと、新柳町です。元柳町は「元」の柳町ということですが、なぜ「新」柳町が上府中にあるのでしょう?新柳町は明治4年から昭和37年にかけての町名で、明治政府の政策により、下府中の柳町にあった遊郭を移すため、増山町の東側住宅と元柳町の西側住宅の一部を合わせて成立されました。
旅籠屋7軒に続き芸妓置屋が移され、また遊興にともなう飲食品の仕出し屋や飲食店、料理屋、菓子屋、酒屋などが次々と店を構え、歓楽街として発展。明治31年には戸数40戸、人口241人と発展しました。しかし同40年に遊郭内から出火し、延焼12か町、254戸を類焼し、被災者は1,191人に及ぶ大災害となり、遊郭は穴切町へ移されることとなりました。(穴切遊郭については2016年10月号に掲載)
火災によって大きく人口が減少した新柳町ですが、その後は住宅地として整備され、昭和12年には戸数60戸、人口276人となっています。
増山町は江戸期から昭和37年にかけての町名で、はじめは増山通りと呼ばれていましたが、享保9(1724)年、幕府の領化にともない甲府勤番の屋敷が置かれ、町場化されていったことで増山町となりました。町名の由来は増山氏が居住していたことに因むようです。
大変お恥ずかしいのですが、今回の取材で増山氏がどのような武将なのか調べきれませんでした。武田24将ではありませんし、三河や常陸国の大名である増山氏の関係なのでしょうか?上府中はその歴史の深さから、専門知識が無いと分からないこと、調べきれないことがたくさんあります。ご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひご教授いただきたいです。
文:川上明彦
天正10年、武田氏が滅亡したことで入国した徳川家康は、尊躰寺に在陣し、同年12月から翌11年5月まで国内経営の指揮をとったと言われています。その後、尊躰寺は旧金手町へと移されますが、跡地には金幣稲荷大明神が祀られています。金幣稲荷という聞き慣れない名称は、現在の尊躰寺にある大久保長安の供養塔が、もともとこの地にあった事に因むと思われます。
※大久保長安(天文14〜慶長18年):江戸時代初期の幕臣で金山奉行。元は武田家家臣。
場所:甲府市武田3丁目の甲府聖オーガスチン教会の向かい