旧町名を復活させたい 〜泉町、西青沼町、寿町〜
リオデジャネイロオリンピックも閉会となりましたが、日本のメダルラッシュには勇気と希望をたくさん貰いました。さまざまな競技を観戦する中で、あらためてアスリートの皆さんの技術と精神力に脱帽しました。心から尊敬します。山梨県勢も頑張っていましたよね!
山梨学院高等学校野球部も全国大会の2回戦で敗退となりましたが、初戦突破は21年ぶりということですから、歴史を塗り替えたことになります。本当にお疲れさまでした。
ちょっと気になったのが、各放送局ともスポーツの報道がメーンとなり、今年は終戦記念日に関連する内容が例年より少なかった気がします。こういう時こそ情報が幅広く、量が多い新聞はオススメです。もちろん、スポーツの内容も充実していましたよね。
さて、皆さんは美術館通りの丸の内郵便局東交差点付近に、「西 志んしうみち 南 みのぶみち」と書かれた道標があるのをご存知ですか?
結構大きな文字で書かれているので、頻繁に通る方であれば気付いている人も多いでしょう。こちらの道標は、昔から信濃路と河内路の分岐点として、旅人にそれを知らせるために存在していたのですが、甲府大空襲によって焼けてしまったことから、泉町の皆さんが復元・再建したものです。
現在は相生1丁目や丸の内3丁目となっている泉町は、明治9年に西青沼町の一部を改称して成立しました。由来は縁起が良いからということで、桜町や常盤町と同様に佳名となります。その後、明治22年に甲府市制が施行された際に甲府市の所属となりました。明治期には多くの製糸工場があり、明治末期には市内でも最大規模となる釜数約1,300個の草薙合資会社がありました。ちなみにこの草薙合資会社は甲州財閥の若尾家が関わっている工場とのことです。
こちらの写真は明治43年に大水害に見舞われた泉町です。
豪雨に伴い相川が氾濫し、甲府の南西部は水につかり、道路は川のようになりました。
こちらの写真は大水害で流失してしまい、荷車が通れるほどの仮橋となった飯豊橋です。
水害に苦しみながらも、大正期以降は中巨摩郡方面の養蚕・製糸の産業発展に伴い、商工関係の戸口が増え、泉町は発展していきました。
こちらの写真は現在の美術館通りです。当時の面影は道標ぐらいしか発見できませんでした。
西青沼町と聞いて違和感を感じたのは私だけでしょうか?青沼と聞けば甲府市総合市民会館の辺りを想像しますし、このような離れた地に同じ青沼という名称が付くのはどんな理由からでしょう?実は西青沼町はもともと東青沼町と合わせて、沼地・低湿地の青沼郷だったそうで、甲府城が築城される際に東西に別れ、二ヵ村となったそうです。そうなると、この青沼は武田氏時代からの地名ということになりますね。西青沼町は昭和の大合併の際に無くなってしまい、現在では寿町と宝になっていますが、ひっそりと公園の名称として面影を残しています。
寿町はもともと飯田新田といわれており、甲府市に編入となってからも大字飯沼村の一部でしたが、明治35年に佳名である寿町に改称されました。昭和初期には、製本、鉄工、木工、酒造の工場も見られましたが、道路より南側はほとんど水田だったということです。寿町と改称された明治35年、現在のコラニー文化ホールの場所に県立山梨高等女学校が開校。県内の女子教育の中心的存在となりました。
甲府大空襲により校舎が全焼するも再建し、昭和23年に山梨県立甲府第二高等学校へ改称。昭和50年に下飯田の現在地へ移転します。この移転を機に甲府一高、南高と共に総合選抜校へ指定され、男女共学となり、昭和52年には甲府西高と改称し、現在に至ります。
さて、以前に二十人町を調べた際にも感じましたが、甲府城の西側には歴史を後世に伝えるシンボルが少なく感じます。八日町や山田町、柳町といった東側には旧町名の由来などが書かれた看板の設置などがあり、歩いていると目に止まります。看板があればそれで良いという訳ではありませんが、歴史を後世に伝えていく第一歩として必要なことではないでしょうか?
3年後には開府500年を迎えますし、旧町名を後世に伝えるための看板設置について、何かしら活動ができないものかと考えさせられた今回の取材でした。
文:川上明彦
かんかん地蔵
また、若きより深く仏教に帰依し、文治2(1186)年に京都嵯峨野の法輪寺を模して当寺を建立したとのこと。
有義は九州の五島で逝去されましたが、首級は当寺に埋葬され、石地蔵を安置しました。当初、法要の際の読経の合図に鳴らす仏具である「磬(けい)」があったため、かんかん地蔵と呼ばれたそうです。(法輪寺の看板より)
参考資料:甲府街史、甲府市統計書、山梨百年、Wikipedia、山梨県HP、甲府西高HP