旧町名を復活させたい~お正月だよ番外編~

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【一年の計は元旦にあり】
 ご存知の通り、何事も最初に計画や準備が大切であり、計画が出来ていないと物事はうまくいかないといった意味のことわざです。ことわざの語源には諸説があるようですが、中国の伝統的な行事や儀式などを解説した書物「月令広義(げつりょうこうぎ)」の中に「四計」というものがあり、そこにはこう記されています。

 ① 一日之計在晨(一日の計は朝にあり)
 ② 一年之計在春(一年の計は元旦にあり)
 ③ 一生之計在勤(一生の計は勤にあり)
 ④ 一家之計在身(一家の計は身にあり)

日本のことわざはこの②から来ているという説があります。
①に関しては読んで字の如くですが、③、④に関しては「まじめに努力することで人生が決まり、身の振り方や生き方で、一家の将来が決まる」といった意味とのこと。仰る通り!納得です。
さて、今回のMattocileciは、年の始めの1月号ということで旧町名を復活させたいの番外編としてお送りしたいと思います。


 お正月の恒例行事のひとつと言えば初詣ですが、皆さんは毎年どちらへ行かれるでしょうか?甲府市で人気の初詣スポットと言えば、武田神社を思い浮かべる方は多いでしょう。
 武田神社は言わずと知れた武田信玄の館である「躑躅ケ崎館」跡にある信玄公を祀った神社です。信玄公は「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という考えからお城をつくりませんでしたが、信玄公が甲斐の国を統治していた時代は武田神社周辺が城下町ということになります。甲府城が築城された時も躑躅ヶ崎館周辺から移された町名はいくつかあり、ちょうど1年前の2015年1月号で旧柳町を取り上げた際にも触れた通り、武田神社周辺に古府中町という町名が存在することも、このことに由来します。
 さて、前置きが長くなりましたが、甲府城が築城されるまで甲斐の国の中心地であった武田神社周辺は、明治から昭和にかけてどのような風景だったのでしょう?

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 上の写真は昭和初期の武田神社前広場です。武田神社の社殿は大正8年に竣工しているので、出来て間もない頃の写真となります。右手がお堀で、左手の武田通りから車が上がってきた様子がうかがえます。アスファルト舗装はされていませんが、今と大きく変わらない気がするのは私だけでしょうか?

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 こちらは武田通りで、南側から神社方面を撮ったものです。昭和33年のものということですが、現在とは全く違い「参道」という雰囲気が感じられます。現在も桜並木はありますが、道路拡張時に完全に植え替えられたとのこと。道路交通網が発達したのは東京オリンピック以降で、それまでは舗装されていない道の方が多かったと知ってはいましたが、こうやって写真で見ると、日本はわずかな時間で恐ろしいほどの変化を遂げてきたのだと実感します。

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 こちらの写真は昭和12年に高台から相川村を撮したものです。手前に高等工業学校(現山梨大学工学部)、その奥には県立師範学校(現山梨大学教育人間科学部)があり、左手奥には歩兵第四十九連隊の建物が見えます。そして、これらの大きな建物以外は地図の通り田畑が目立ちます。

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 こちらは私が撮影したものです。写真③の撮影場所が見つからず、高さや角度を合わせることが出来ませんでしたが、同じようなエリアを撮ってみました。田畑は全く見当たらず、建物が密集しており、目をこらさないと山梨大学がどこにあるのか分からないぐらいです。ちなみに昭和12年の甲府市の人口は104,530人で、まだ相川地区は甲府市に編入されていません。

 旧町名の由来を知ることは、当時の人たちの思いや価値観を知ることだと、私は思います。そして、その中にこれから我々が向かうべき方向性のヒントが隠されていると考えています。もちろん全て昔が良かったということではありません。物事を成し遂げるためには、まず計画や準備が重要だと教わりました。そして計画を立てるうえで、まず自分達が今どこにいるのかを理解するため、過去を知る必要があるのだと思います。
 2016年も初心忘れるべからず「旧町名を復活させたい!」の活動を継続していくため、一年の計は元旦にありを実践したいと思います。

文:川上明彦

参考資料:甲府街史、甲府市統計書、山梨百年、甲府市役所HP、Wikipedia