旧町名を復活させたい~志磨の郷 湯村 前編〜


  さて、2019年は、武田信虎公が川田町から躑躅ヶ崎へと館を移してから、500年目となる節目の年です。さまざまなところで行われている「こうふ開府500年」のイベントは、「2019年に開府から500年目を迎える」という事実を知って貰うことが目的では無く、節目の年を切っ掛けに「我が町甲府」の歴史を知り、誇りを持ち、「これからの甲府」について皆で考えていくことに重きが置かれています。そんな「こうふ開府500年」を応援する思いを込めて、今月は湯村の歴史を調べていきたいと思います。\(^O^)/


 湯村の由来を調べていくと、その歴史は大変古く、「志磨荘」と呼ばれていた平安時代の頃まで遡りますが、湯村の「湯」は、もちろん温泉から来ており、いつ頃に湧いたのかについては、伝承がいくつか残っています。
 「当時の温泉郷周辺は萱(カヤ)の原野が広がっていましたが、一羽の鷲が1日のうち何度もその萱の中に入ったり、出たりを繰り返していました。その後、1週間ほどで来なくなったことを不思議に思った村人が、鷲の出入りしていた場所を調べたところ、白煙を見つけ、掘ってみたら温泉が湧いた」や「諸国を遍歴していた弘法大師が、地蔵菩薩の降臨を祈願するとともに、人々の諸病平癒のために自らの杖で地面を掘り、湯を掘り当てた」など、伝説のような話がいくつか語り継がれていますが、どれが本当なのかは分かっていません。
 それはともかくとして、この荘園の一角に温泉が湧くようになり、多くの人が集まる湯治場となったことから「志磨の湯」や「湯の志磨(島)」と呼ばれるようになります。その後、時代を経て、湯島村と呼ばれるようになりますが、正保年間(1645〜1648年)に湯村と改称。切っ掛けは御陽成天皇第八皇子の知恩院門主二品良純親王(八の宮)と言われています。
 良純親王は天皇の怒りに触れ、都を追われて甲斐の国へと流されますが、その際に湯島村の人たちは、「島」の字があると島流しのようであることから、良純親王に気を使い「島」をとって「湯村」に改名したとのこと。この時、良純親王が住居を構えたのが、現在の旅館明治の場所になります。


 ちなみに、前途した伝説は今にもその名残があり、「鷲の湯」に関しては、湯村温泉通りバス停付近に、「杖の湯(弘法大師の杖)」はホテル弘法湯の裏手に看板が設置されています。

 さて、湯村で弘法大師と聞けば、まず塩澤寺を思い浮かべるのは私だけではないはずです。


 塩澤寺は大同3(808)年に、大師自らが厄除地蔵大菩薩の座像を彫刻され、その尊像をご開眼(新作の仏像や仏画を供養し、眼を点じて魂を迎え入れること)されたのがはじまりで、その後、天暦9(955)年に空也上人が開扉仏を建立安置し、それより福田山塩澤寺と称するようになったといわれています。名称の由来は、塩澤寺の門前を流れる湯川の畔で塩が取れたからで、その塩は谷の湯と呼ばれていた塩辛い温泉が流れ込んでいたのだと思われます。
 2018年12月号で、塩部の由来を「この地を流れる水に塩気があったから」とご紹介しましたが、その原因がこの谷の湯なのですね。(^_^)
 毎年2月13日の正午から翌14日の正午までの24時間に限り、石造地蔵菩薩座像が耳を開き、善男善女の願いを聞き入れ、厄難を逃れることができるといわれる厄除地蔵尊祭。このご本尊が安置されている地蔵堂は、国の重要文化材に指定されています。


 また、山門の脇にある、30mも枝が横に伸びている「舞鶴の松」と呼ばれるクロマツは、県の天然記念物に指定。


 地蔵堂の裏手に祀られている「首浮き地蔵」は、願いごとが叶う時は首が軽く浮き上がるといわれており、地蔵堂の右手奥には、県内最古といわれる板碑(いたび)があります。


 板碑を過ぎて裏山を登っていくと、「こうもり塚」や「地蔵古墳」があり、周辺には桜が植えられ、塩澤寺は由緒だけでなく、見所も満載のスポットですね。(^_^)b

 湯村は武田氏とも深い縁があります。甲陽軍艦によると、信玄は天文16(1549)年に信州上田原の合戦において負傷し、30日間に渡り志磨の湯で治療したと記録されており、翌年の塩尻峠の戦いでも負傷して治療に訪れましたが、この時は浅手であったため、10日ほどで政務に復帰しています。息子の勝頼に関しても記録が残っており、「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉地は山梨、長野、静岡、岐阜などに数多くあるものの、信玄、勝頼親子が湯治を行った確実な記録が残るのは、湯村温泉だけとなります。(・0・)
(5月号へ続く)

文:川上明彦
参考資料:山梨百年、甲府市HP、角川日本地名大辞典