第20回 言論統制進み、戦争へ
昭和の初め、世相が騒然としていた背景には、第一次世界大戦後の世界恐慌の影響をまともに受けた日本は、かつてない不況に見舞われたという状況がある。経
済立て直しの政党政治も十分機能せず、テロが続発して軍部主導の政治が展開されていく。その軍部の中でも国家革新を唱える皇道派と総力戦体制をとりたい統
制派が対立を深める。そんな情勢の中で二・二六事件は起きた。
11年2月26日早朝、陸軍の皇道派に組する過激な青年将校に率いられた
約1400人の将兵が首相官邸などを襲撃し、首都の中枢部を4日間占拠した。閣僚を始め警護の警察官らも大勢犠牲になった。
この事件についての報道は一切禁止された。禁止の通達前に号外を発行した新聞社もあったが、即発禁となった。概要が陸軍省から発表されたのが午後8時15分。その内容は「内外重大な時に元老、重臣、財閥、官僚、政党など国を破壊する元を排除し、国を守る」(要約)という青年将校の決起趣意書そのものが引用されていた。これが号外やラジオというメディアを通して市民に伝えられた。この時期は軍も丸く治めようとしていたようで、反乱部隊を余り刺激していないが、後に天皇の憤激を買い鎮圧に乗り出す。
この反乱部隊の後ろ盾になっていたと思われる陸軍大将が、情勢の変化を見て我関せずを決め込んで無罪になったり、財閥批判をしながら反乱資金には某財閥の資金が流れていたというような内容はずっと後になって知らされることになる。
国民は事件の詳細を知らされず、不安だけが渦巻く世になる。暴力によって言論を支配しようとしたことでも特筆されるが、一方でラジオの速報性が注目されるきっかけにもなったといわれる。
情勢は悪化の一途をたどる。12年7月北京郊外の盧溝橋でついに日中両軍が衝突、日中戦争が始まった。翌13年4月、近衛内閣は国家総動員法を成立させて、政府の意図するままに物資や労働力を自由に使えるという戦時体制を作り上げた。当時、戦争は武力だけでなく総力戦であるとされ、国民あげて前線へ資源を供給するという考えから「銃後」も重要な働きをするとされた。政府は新聞、放送、雑誌など言論機関を総動員して国内世論を誘導した。軍部や内閣の情報部門を統合強化するなどして、全ての言論機関は国威発揚、国策宣伝のための道具として位置づけられた。
山梨日日新聞は、大きな流れの中にありながらも郷土の将兵に対する配慮は欠かさなかった。2・26事件の年の5月、甲府連隊の矢野部隊が満州へ移駐すると、記者を派遣して現地の状況を報道。日中戦争時には1ページの文字数を多くして充実させるとともに、8月7日に甲府中心街で戦況を速報、映画館では日華事変ニュースとして上映した。13年郷土編成の津田部隊が上海に上陸するのに合わせ、政治部長をその警備地区に特派した。14年には「郷土将兵慰問新聞」を企画、郷土色豊かな新聞を前線に送り続けた。遠く離れた厳しい戦地で、郷土のしらせは将兵の心を和ませたに違いない。