甲府空襲


1408main

旧町名を復活させたいという思いから、先月号で昭和の大合併前の町名をご紹介したところ、大勢の方から好評をいただきました。その後も、時間を見つけては図書館で調べたり、詳しい方にお話しを伺ったりしているのですが、その際に必ず出る話題と目に付く写真は甲府空襲。7月6日(日)付の山梨日日新聞で、甲府空襲の体験者が当時のことを語る記事が掲載されていました。
記事中の4名の方達は当時子供だったにも関わらず、その時の様子を鮮明に覚えているようです。もちろん私は戦争を体験したことがない世代ですが、空襲後の甲府の写真を何枚も見た後に読んだ記事は、自分の体験のように空襲の映像を思い浮かべさせ、恐ろしい気持ちになりました。


甲府が空襲されたのは昭和20年7月6日。蒸し暑い夜の11時54分。愛宕山方面に落とされた爆弾から始まりました。空襲警報のサイレンが鳴り響くも、B29が落とす焼夷弾が落下する音と地上で炸裂する爆発音でかき消され、甲府市の中心部は30分たらずで火の海と化したそうです。市民は為す術も無く炎は燃え続け、白壁の土蔵が立ち並んでいた甲府城下町の風景はひと晩で焼け野原となりました。

空襲直後の甲府市戦火状況調査書では、甲府市の全戸数が25,898戸で、そのうち空襲の被害を受けた戸数は18,094戸。被害者数は86,913人、そのうち死者740人、重傷者345人と記録されています。しかし、昭和49年に行われた市の再調査では、死者・行方不明者は総計1,127人と分かり、そのうちもっとも被害が大きかったのが湯田地区の427名でした。
当時の日本は劣勢だったことを国民に隠していましたが、この甲府空襲があった翌日も大本営は「我々ノ損害軽微ナリ」と発表をしているようです。当時の甲府市民はこの発表を聞いてどう思ったのでしょう?

甲府空襲について調べれば調べるほど、戦争は恐ろしいと感じます。そして、もっと当時のことに関心を持ち、当時を知る人たちの話を聞き、後世に伝えていく努力が必要だと改めて感じました。そして、もうひとつ感じたこととして、戦争の恐ろしさや焦土と化した甲府の様子と同時に伝えていきたい「誇り」を見つけました。それは、逆境から這い上がって来た甲府市民のバイタリティーです。

1408_1

こちらは昭和22年に撮影されたものですが、戦後からわずか2年でこれだけの住宅が立ち並んでいます。

1408_2

もうひとつは昭和24年に撮影された甲府中心街ですが、本当に空襲があったのかと疑うほどの復興ぶりで、岡島百貨店の左横には建設中の山梨中央銀行がうかがえます。
どうやら空襲で焼けた約18,000戸の家屋のうち、約4割が1年以内に再建されたようです。きっと当時の人達は目の前の苦難に真っ正面から立ち向かい、その先にある輝かしい未来を本気で信じてがむしゃらに進んで行ったのでしょう。なんだかそれを考えると、とても誇らしく思えますし、今の我々にはそのバイタリティーが足りないように思えます。

私が旧町名を復活させたいと思うのは、町の名前をきっかけに歴史を知ることで、自分が生まれ育った町に「誇り」を持てると考えたからです。そして、誇りが持てれば自然と自慢をしたくなりますし、後世にも伝わっていくのだと思います。甲府空襲に関しても、恐ろしさや悲しい話だけでなく、焦土から復興させた先人達のバイタリティーを誇りを持って伝えていきたいと思います。


ittemiloci
hotarubashi_map

甲府空襲で殆どが焼けてしまった甲府市中心部ですが、残ったモノもいくつかあります。
そのうちの一つがこの蛍橋で、昭和4年竣工と書いて あります。この辺りは前月号でご紹介した元祖八日町に当たると思うのですが、昭和4年当時は富士川町でした。中央線が開通する以前は、長禅寺の参道だった のでしょうね。今もこの橋は現役として活躍していますが、戦前のモノは貴重ですので大事に使っていきたいですね。

hotarubashi1

hotarubashi2

1 Comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です