路線バスでゆく かいゆうほ〜ボロ電の面影探訪編(2)〜
旧貢川駅から旧徳行駅に向かって、真っ直ぐと続く廃棄道。
春寒ようやくぬるみ始めたこのごろ、お変わりなくお過ごしでしょうか?そろそろ新聞紙面でも、桜の開花情報が掲載されるようになり、出かけるのが楽しくなる季節です。ここ数年は、桜をゆっくり観て回ることが出来ませんでしたが、今年こそは日本人で良かったと、しみじみ噛み締める時間をつくりたいと思います。
さて、これからの高齢社会で、大変重要な役割を担うであろう路線バス。もっと路線バスの事を知り、利用していただき、潤いのある生活を送っていただきたいという思いを持ち、このコーナーを連載しております。今回は先月に引き続き、ボロ電の面影を辿りながら「かいゆうほ」です。\(^O^)/
甲府の街を抜け、荒川橋を過ぎると、ボロ電は専用軌道へと入りました。私が乗るバスは、専用軌道(廃軌道)から外れて右折。上石田町へと進みます。バス停留所の近くに、甲府市指定有形文化財で天然記念物となる「上石田のサイカチ」を発見。
看板によると、サイカチは川岸の湿ったところに生える木で、この辺りは昔、貢川の河川近くだったようです。河川周辺は整備され、現在はすっかり市街地となりましたが、上石田のサイカチがその面影を残す存在として、ひっそりと佇んでいます。大小二本が揃って生えていることから、地元の方々は「夫婦サイカチ」と呼んでいるそうですが、両方とも雄木とのこと。兄弟サイカチって事ですね。(^_^)
ボロ電の上石田駅は、専用軌道へと入って最初の駅。また、甲府から来て最初の交換駅でもありました。交換駅は単線区間において、列車同士がすれ違うことが出来るようにした駅ですが、JR身延線も殆どが単線ですね。
ちなみに、甲府空襲の直前に、車両の全てを上石田駅に避難させたことで被害を免れたことから、戦後は甲府側の起点駅として活躍し、ボロ電は復興に大きく貢献したそうです。その判断をした方は素晴らしい!甲府で生まれ育った私としては、感謝の気持ちをお伝えしたい!
荒川橋の架け替えや道路の拡幅工事の影響で、上石田駅の面影は確信を得られませんでしたが、おそらく旧道へと接している上の写真辺りが、駅だったと推察されます。
駅跡をご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。
上石田町を過ぎ、貢川を越え、富竹バス停へ。バス停と言えば、道路の端に看板と時刻表が置いてあるイメージですが、富竹バス停は家電量販店の敷地内にあります。
それもそのはず。実はこの場所、ボロ電の貢川車庫跡地。かなり広い敷地で、検査線2線、留置線1線があり、ボロ電の基地として機能していたそうです。では、なぜこの場所に、こんな大きな車庫があったのでしょう?
ボロ電の歴史はとても複雑で、そのルーツは明治30年代に開業した馬車鉄道となりますが、走っていたルートは全く違うモノになります。
我々が「ボロ電」と呼ぶ電車の軌道がつくられたのは昭和初期で、この貢川から甲斐青柳方面に向けて、少しずつ延長をしていきました。延長して開業を小刻みに繰り返し、1932年(昭和7年)に甲府駅前〜相生町間の開通を最後に、全通します。う〜ん、貢川はボロ電発祥の地だったのですねぇ〜。(・0・)
ボロ電が廃止されてからは、山梨交通の貢川営業所として使用されていましたが、1994年(平成6年)に敷島営業所へ統合されたことから、商業地に転用されました。
貢川駅は、廃棄道側に山梨交通グループの、YKタクシーの敷地として面影を残しています。
当時、この辺りは人家がまばらで、桑畑や田畑が広がっていたそうですが、真っ直ぐと伸びるこの道に建物が無かったとなると、相当遠くまで見渡せたのでしょうね。
富竹西を越え、徳行バス停に到着。ボロ電の貢川駅の次は徳行駅となりますが、おそらく下の写真の辺りが、徳行駅の名残なのだと思います。
徳行駅は1面1線の「棒線駅」だったとのこと。ボロ電は徳行駅を過ぎると、大きく西側へとカーブをし、甲府市から竜王町へと入っていきました。路線バスも、徳行南バス停を越え、甲斐市へと進みます。
(次号へとつづく)
文:川上明彦