旧町名を復活させたい 〜宮前町〜
三が日の気候がウソだったかのように寒い日が続いております。成人式前日の降雪も甲府はかなり積もり、雪かきは大変でしたよね。2月もおかしな気候が続くかもしれません。風邪などひかれませんよう、くれぐれもご自愛ください。
さて、今月号も2019年に迎える開府500年に向けて、上府中と下府中に関わる町名について調べていきたいと思います。
【 宮 前 】
宮前(みやまえ)は、日本全国にみられる地名のひとつ。多くの場合、宮とは「神宮社」「神社」「社(やしろ)」を表し、もともと神社等の参道周辺の地域を指したものである。全国に多くの例が見られ、一部は自治体名や行政表示名にも採用されている。(Wikpediaより抜粋)
先月号でご紹介した元紺屋町から、藤川を挟んで西側の町が宮前町です。現在も残る町名ですので、馴染み深い方は多いと思います。宮前町が指す「宮」とは八幡神社。
大正10年の地図で確認してみると、神社の北側はほとんどが田畑で南側が宮前町となっており、まさに宮の前ですね。
私にとって八幡神社はとても思い出深い神社で、小学校の帰りにわざわざ友人の家の方まで遠回りして立ち寄り、鬼ごっこや缶蹴りをしたり、夏の夜にはカブトムシやクワガタを探しに行きました。同じような思い出を持っている方も多いのではないでしょうか?実はこの神社も以前にご紹介した愛宕神社などと同様、甲府城築城の際にこの場所へと移された歴史があります。
もともとは甲斐武田氏5代当主である石和五郎信光が、鎌倉の鶴岡八幡宮を石和の館に勧請し、武田家の氏神として国衙八幡宮と称したことがはじまりとされており、現在もその地は石和八幡神社として残っています。その後、永正16(1516)年に武田信虎が躑躅ヶ崎へ府を築く際に、館の西側へと移され、信玄の時代にはその関わりの深さから惣社となり、府中八幡と称しました。(惣社=いくつかの神社の祭神を1か所にまとめて祭った神社。平安時代、参拝や祭祀の便宜のために、国司が国内諸社の神霊を国府の近くに勧請したのが起源。郡・郷などの総社もある。goo辞書より)
現在は相川小学校の南西側に、峰本古八幡神社として、峰本自治会館と棟続きの形で残っています。
浅野長政が甲府城築城にあたり現在の場所へと移した八幡神社は、府城の鎮守祈願所として惣社の役割を果たしてきました。ところが明治維新を迎えると禄高が国に返還されることになり、神社の収入は激減します。結局、維持管理が苦しくなり、明治期後半になると社殿の荒廃は見るに耐えない状態となります。この状況を見かねた有志は八幡神社奉営会を設立して協賛者を募り、現在の金額で約3億円となる巨額な寄付金を得て、本殿、拝殿、随身門、鳥居、神楽殿を再建させたとのこと。残念ながらこれらは甲府空襲で全て焼失してしまい、現在の本殿などは戦後に立てられたものとなりますが、再建を願った多くの方達の行動からも、甲斐の国におけるこの神社の重要性が伝わってきます。ちなみに、鳥居を潜って参道を少し進むと、旧随身門の礎石が見られます。
話を町名へと戻します。宮前町は柳沢吉保の甲府入封に際し、神社前の東西通りの南側に南北の通りを開き、ここに組屋敷を設置し、以後幕末まで組屋敷地となりました。大正10年の地図に記されている南北の通りは現在もほぼ同じ形で残っており、クランク辺りから八幡神社を見上げると、当時の風景が浮かんでくるような気がします。
明治初期、甲府城が開城されると勤番武士は四散して民家が増加し、古府中村の一部となります。戦争後は住宅化が進み、知事公舎や官舎などが建設され、昭和37年に元紺屋町、元城屋町、愛宕町、古府中町の一部が合併して宮前町が成立しました。
そうなんです。現在の宮前町は1度無くなったにも関わらず、昭和の大合併をきっかけに復活した町名だったのです。やはり町名はその町の歴史や風景を伝えるものが良いですね。
文:川上明彦
甲府市中心市街地で「まちゼミ」という事業がスタートしますが、ニュースコムもこの活動に参加させていただくこととなりました。弊社で運営している「文化のるつぼ へちま」で、旧町名に関するゼミを開催します。ご興味のある方はぜひお申し込みください。詳しい内容はイベントページに掲載されていますので、ご覧になってください。
文化のるつぼ へちま
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