旧町名を復活させたい~飯田 後編~
7月の参院選の投票率は、48.80%と過去2番目の低さとなりましたが、山梨県内における10代の投票率は、30.45%(県選挙管理委員会の抽出調査結果)と更に低く、政治に対する関心の低さが顕著に表れました。
若い人達が投票へ行かなければ、政策はどんどん偏っていくでしょう。
未来を担う若者が選挙へ行くよう、周りの大人達が声を掛けていくべきだと感じます。
さて、2019年は、武田信虎公が川田町から躑躅ヶ崎へと館を移してから、500年目となる節目の年です。
さまざまなところで行われている「こうふ開府500年」のイベントは、「2019年に開府から500年目を迎える」という事実を知って貰うことが目的では無く、節目の年を切っ掛けに「我が町甲府」の歴史を知り、誇りを持ち、「これからの甲府」について皆で考えていくことに重きが置かれています。
そんな「こうふ開府500年」を盛り上げたく、先月に引き続き、飯田の歴史を紐解いていきたいと思います。\(^O^)/
アルプス通りから「甲府西中北西」交差点を東側へ入り150mほど進むと、左手に宝樹寺があります。
こちらにあるお地蔵さんは、武田信虎に仕えた武将、飯田虎春のお墓と言われています。
飯田虎春は逸見氏の一族で、武田信虎の重臣でした。
信虎から「虎」の字を賜ったほど信頼を得ており、幼少期の晴信(後の信玄)に弓馬を指南したとのこと。
虎春を調べていて、ふと気づいたのが、先月ご紹介した武田有義のお墓も「かんかん地蔵」と呼ばれているお地蔵さんということ。
かんかん地蔵は丸の内3丁目の法輪寺にあり、2016年9月号でご紹介しました。
また、有義はもともと甲斐源氏の総本家である「逸見氏」を継いでおり、5代目当主である一条忠頼が源頼朝によって横死させられたことから、武田有義と名乗り始めます。
活躍をした時代が全く違う2人ですが、不思議な共通点が見受けられますね。(^_^)
南北朝期から戦国期にかけて存在した飯田郷。
武田氏滅亡後は、甲斐を掌握した徳川氏によって各地へと分知されます。
江戸時代に入ると飯田新町となり、明治8年には飯沼村の一部へ。
飯沼村とは明治8〜22年までの村名で、相川を中心に西青沼村、上飯田村、飯田新町が合併して成立しました。
明治22年には甲府市の大字となり、一部に市街化が進みつつ、同36年に二十人町、西青沼町、寿町、新青沼町、穴切町、百石町、飯田町となります。
「大正10年の地図」の頃の飯田町は、世帯数約120、人口約600と、町内はほとんど田地でした。
大正14年には甲府市学校衛生会が、県内初のプールを開設します。
この頃は荒川で水遊びをするのが日常でしたが、子ども達だけでの川遊びは危険が多かったため、大変喜ばれたようです。
このプールは、大正11年から計画されていましたが、関東大震災やさまざまな障害により、完成までに4年もの歳月がかかりました。その間、京都や東京などへ視察員を送り、設計するうえでの参考としたり、市民に寄付を呼びかけたりと、プールの完成に向け、大変な苦労があったようです。完成当時、プールに使用する水は荒川から引いていました。
県内初のプールは、荒川から生まれたんですね。夏になると、横須賀海兵団から競泳の選手が招かれ、子どもたちへの水泳の指導や、競泳大会も開催されるなど、多くの人が集う賑わいの場になっていきました。戦争で一時期、閉鎖になっていたこともありましたが、終戦を迎えると再開し、昭和30年ごろまで栄えたということです。
事故の心配もなく、安心して安全に遊べるこの場所は、たくさんの人びとから親しまれたことでしょう。
(甲府市HPから抜粋)
昭和4年には県営の運動場が創設、同12年には甲府市立男子高等小学校(後の西中学校)が創立、NHK甲府放送局も開局します。
甲府放送局は全国で22番目のローカル放送局として開局したそうですが、意外と早く感じたのは私だけでしょうか?(・o・)
甲府測候所は明治27年8月に県の機関として西青沼で設立。
1日6回の気象観測と気象通報を開始しました。
大正9年には伊勢町へと移転して業務を続け、昭和13年に国営となります。
その後、昭和20年の甲府空襲によって庁舎・附属舎が全焼となり、昭和26年に飯田町へと移転します。
現在の建物は1993(平成5)年に建てられました。
ところで、皆さんは気象台がどんな業務を行っているかご存知ですか?
甲府地方気象台のHPによると
気象庁では、自然現象を監視して、自然災害の予防を行うと同時に、交通の確保、産業の興隆などに気象業務を役立たせるため各都道府県に管区気象台や地方気象台を配置しています。
山梨県には甲府地方気象台が配置され、日常の天気予報や台風、暴風、大雨などについての警報・注意報・気象情報や地震火山に関する情報などを適宜適切に防災機関や関係機関及びテレビやラジオなどの媒体を通じて県民に提供し、防災機関として重要な役割を果たしています
とあります。
地方気象台は全国に50カ所ほどあるようですが、その役割はあまり知られていない気がします。
戦後は住宅地化が進み、世帯数が急激に増える中、県営グランドの一部を用地として、昭和41年山梨県立女子短期大学が開学。
平成22年には公立大学法人へと移行し、山梨県立大学となって現在に至ります。
飯田は南北朝時代から続く由緒ある名称ですが、時代の流れとともに、その役割を大きく変えてきたことが分かりました。
今では「自然堤防などの小高いところにある田地」の面影は全く見られず、住宅地や教育・公共の場となり、今回歩き回ってみたことで「暮らしやすい街」というイメージが強くなりました。
ちなみに、皆さんご存知の通り、NHKは2012(平成24)年に甲府駅北口へと移転をしており、跡地はオシャレな住宅地となっています。
それもこれも、武田有義が勧請建立した八幡神社や、信虎が戦った古戦場の石碑が大切に引き継がれていることで、ご先祖様が気を良くし、守ってくれているからでしょうか?お盆の時期に取材をしたせいか、そんな風に感じました。(^_^)
文:川上明彦
参考資料:甲府市統計書、角川日本地名大辞典、山梨百年、甲府市HP、甲府気象台HP、Wikipedia