旧町名を復活させたい 〜細工町、白木町、竪町〜



 4月からスタートした「安心サポートサービス」が好評です。日々新聞をお届けする際に異変を感じたら、事前にご登録いただいた連絡先などへ通報するというサービスで、ご高齢で独居の方にオススメです。
 山梨日日新聞を取り扱っている販売店全てで実施しているサービスですので、ご興味のある方はぜひご連絡ください。
ご登録いただかなくても、弊社では地域の見守りを意識して活動していることから、何か異変を感じた時はお伺いするかもしれません。ご迷惑の場合は、伺った時に仰っていただければと思います。
 さて、今月号も2019年に迎える開府500年に向けて、上府中の町名について調べていきたいと思います。


 旧細工町は江戸期から昭和37年にかけての町名で、江戸期は甲府城下上府中26町のひとつでした。武田氏時代に造営された町のひとつで、甲府城築城に伴い新城下に組み込まれました。町名の由来は、武田氏により細工職人の居住地として指定されたことによります。細工職人とは、金具師や鞘師、研ぎ師などを指し、甲州古府中町数家数間数改帳には寛文2(1662)年の戸口として48戸とあります。町の規模を考えると少ないように思えますが、当時の人口を想像すると多いのかもしれません。

▲現在の細工町

 山の手通りという愛称で親しまれ、北バイパスとも呼ばれつつ、現在は毎日多くの車が行き交う旧細工町。当たり前ですが、大正時代の地図に愛宕トンネルは見当たりません。甲府市民であれば誰もが利用したことがあるこのトンネルは、いつ出来たのでしょうか?


 調べてみたところ、昭和49(1974)年から事業に着手し、昭和52(1977)年に東光寺町と元紺屋町を結ぶ形で開通、供用をはじめたと分かりました。愛宕トンネルも甲府の歴史から見ればまだまだ若造。私よりも年下です。ちなみに有料道路だったトンネルは平成8年3月に無料化され、平成28年にはLEDの白色光源へと変更することで、以前のナトリウム灯よりもトンネル内が見やすくなりました。今後も安心して利用できるよう、県にはしっかりと管理をして貰いたいですね。

 さて、話を細工町へと戻します。愛宕トンネルから山の手通りを西に向かい、武田通りとの交差点を過ぎ、右手に見えるのは藤光山法華寺です。


 天平9(737)年、天武天皇が諸国に勅して建てられた国分尼寺の一つで、元々は甲府市上町にあったものを、武田信玄の弟である信繁が現在地へと移したとのこと。法華寺は甲府市内にある遠光寺、信立寺とともに甲府法華宗三ケ寺の一つであり、約800年前に写経された山梨県内でも最古の写本と言われている、甲府市の指定(平成8年2月14日)文化財「紺紙金泥法華経」を所蔵しています。ちなみに、山の手通りに面して建てられている山門は、甲府空襲での焼失を免れた貴重な建築物となります。


 山の手通りを更に西へと進めば、旧白木町へと入ります。旧白木町は江戸期から昭和37年にかけての町名で、江戸期は甲府城下上府中26町のひとつ。こちらも武田氏時代に造営された町で、甲府城築城に伴い新城下に組み込まれました。町名の由来は材木商が住んでおり、古木の皮をそぐと、黒木が白木になったからとのこと。町内には千葉さな子のお墓があることで有名な、妙清山清運寺があります。


 『千葉さな子は江戸の桶屋町で千葉道場を開いていた千葉定吉の長女でした。当主の千葉定吉は北辰一刀流の開祖千葉周作の弟です。坂本龍馬はこの定吉の千葉道場で、安政三(1856)年から五年までの三年間、剣術の修行に励んでいました。その縁でさな子と知り合ったわけです。さな子はなぎなたの名人でもあり坂本龍馬とともに剣術の修行に励んでいたことでしょう。しかし動乱の世、結局龍馬とさな子は結ばれることなく別々の人生を歩むことになるわけです。さな子はその後、家伝の灸で生計を立てていました。その灸の患者である自由民権運動家の小田切謙明夫妻と懇意になり、さな子の死後、豊次夫人の好意により無縁になる谷中の墓地より分骨し、小田切家の菩提寺であるこの清運寺に墓を建てたのです。墓には「坂本龍馬室」と刻まれており、龍馬を思い続けたさな子の気持ちを察した豊次夫人の思いやりが感じられます。さな子の墓は今でこそ坂本龍馬ファンがたくさん訪れますが、以前は剣道など剣術の修行をしている方がさな子の強さにあやかりたいと必勝祈願に来られることが多かったものです。』
※清運寺HPより


 旧細工町と旧白木町の交差点、現新紺屋小学校西交差点の南側にある南北の通りが、旧竪町となります。江戸期は甲府城下上府中26町のひとつで、嘉永2(1849)年の甲府絵図には「立町」と記されています。南は二ノ濠を隔てて武家地の先手小路に接する南北通りで、南には見附門が置かれていました。写真は見附門があったであろう場所から撮影した現在の竪町です。

▲現在の竪町

 町名の由来は南北の縦通りだったことに因むようですが、数多くある南北の通りの中から、なぜここだけ町名になったのでしょう?
 甲府勤番であった野田成方の著書「裏見寒話」に「古府第一繁華なる所也、酒屋、質屋、八百屋などが軒を並べて住居」とあり、竪町は上府中における八日町のような存在だったことが窺えます。それだけ栄えた町だからこそ、町名として残ったのかもしれませんね。やはり町の歴史を知ることはとても楽しく、大切なことだと改めて感じました。

文:川上明彦


旧町名から紐解く甲府の歴史ゼミ開催
5月19〜27日まで開催されるマチコレ!まつりのイベントとして、「旧町名から紐解く甲府の歴史ゼミ」を行います。
旧町名を復活させたい!の筆者と楽しくおしゃべりしませんか?ご興味のある方はぜひご応募ください。

開催日:2017年5月20日(土)
時 間:午前の部10:30〜12:00 / 後の部18:00〜19:30
場 所:文化のるつぼ へちま(甲府市中央2-13-20)
定 員:各回6名
予約受付:株式会社ニュースコム 0120-35-5458
マチコレ!まつりに関して詳しくはこちら

参考資料:甲府市統計書、角川日本地名大辞典、清運寺HP、甲府市HP、Wikipedia

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です