旧町名を復活させたい 〜横田町、廣庭町、元緑町、元穴山町〜


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 先日、甲府市立北西中学校で行われた、地域懇談会へ参加させていただきました。災害に備えるというテーマの勉強会で、避難所の運営についてゲームを通じて学びましたが、こんなにも大変な状況になるのだと驚かされました。
 県の担当者は、「避難所に来なくて済むのが1番なので、家庭でしっかり災害に備えて欲しい」と仰っていましたが、その通りだと思います。皆さんもぜひ、災害について家族で話し合う機会を設けていただければと思います。


 さて、今月号も2019年に迎える開府500年に向けて、上府中の町名について調べていきたいと思います。
 甲府駅から武田通りを北上し、武田2丁目の交差点を右手に曲がると、旧横田町となります。

1703yokota▲現在の横田町

 江戸期は甲府城下上府中26町の1町で、武田氏時代に造営された町のひとつが、甲府城築城にともない新城下に組み込まれました。町名の由来は、武田氏家臣で足軽隊長を勤めた、横田氏の屋敷があったことによります。ん?ちょっと待ってください。武田二十四将のひとり横田備中守高松の屋敷跡は、武田神社の北東側にある竜華池付近ではなかったでしょうか?看板も設置してありますね。

1703yokota-shi▲横田氏屋敷跡

 そうなると、こちらの町名の由来はどうなるのでしょうか?横田備中守高松は信虎、信玄の二代に渡り大きく武田氏に貢献した武将です。町名の由来になっているぐらいですから、横田町に屋敷があったという方が正しいような気もしますが、真実をご存知の方はぜひご一報を!

 横田町の東隣は、旧廣庭町となります。横田町と同じく、武田氏時代に造営された町のひとつで、甲府城築城にともない新城下に組み込まれました。廣庭町について、いろいろと調べてはみたものの、どうしても町名の由来が分かりませんでした。しかし、廣庭町には甲府市民も意外と知らない物語があるので、そちらをご紹介させていただきます。
 廣庭町は、日本国内ではじめてワインが醸造された場所と言われています。明治3〜4年頃、廣庭町の山田宥教と八日町の詫間憲久の二人は、共同でぶどう酒の醸造をはじめました。資料が残っていないので定かではありませんが、山田宥教は真言密教の大翁院の法印ということですから、おそらく境内の中に醸造所をつくったと思われます。明治7年ごろには醸造も軌道に乗り、ぶどう酒を横浜方面へと大量に出荷しています。また、ブドウの果皮を蒸留してブランデーも試造していたようです。
 明治7年の府県別物産表によると、その年山梨県で、白ぶどう酒四石八斗(約900リットル)、赤ぶどう酒十石(約1800リットル)を生産した記録があります。これは山田宥教、詫間憲久の共同醸造による日本で最初のワイン生産の数量になると思われます。
 西欧の醸造技術が国内に紹介されていなかった明治の初頭、横浜外人居留地で空きびんを買い集めて、富士川の船便で甲府まで運び込み、甲州種、野生のヤマブドウなどを原料に、国産第一号のぶどう酒、ブランデーを生産したことは画期的な事業と言えます。そしてその後、2人の活動が、県立葡萄酒醸造所の設立へと繋がっていくことになります。

 話を旧町名へと戻します。武田2丁目交差点を左側へ曲がると、旧元緑町となります。

1703mitomidori▲現在の元緑町

 調べてみたところ、こちらはちょっと複雑な歴史的経緯があると分かりました。旧元緑町は、元々河尻町という名称だったのですが、甲府城築城にともない下府中へ移された時に古河尻町となり、下府中の河尻町が緑町へと名称を変えた時に、古河尻町を元緑町へと変更しました。河尻町の由来は、河尻肥前守秀隆の屋敷があったことによると伝えられています。河尻肥前守秀隆は織田信長の家臣で、武田氏討伐の際には軍目付として活躍しました。その後、甲斐と信濃諏訪郡の領主となりましたが、信長の権力を利用して威圧的な政治を行ったため、信長亡き後は武田氏の旧家臣や農民から一揆の攻撃を受けました。
 河尻肥前守秀隆の首塚は甲府市北部幼児教育センターの西側に残っており、圧政のうらみから逆さに埋められたということで「さかさ塚」とも呼ばれています。下府中の河尻町は、柳町が隣接していることから、町の発展を願い「柳は緑」にちなんで改称をしましたが、変更の動機はこのような歴史的な経緯からかもしれませんね。

 元緑町の西隣は元穴山町です。こちらも武田氏時代に造営された町のひとつで、甲府城築城にともない新城下に組み込まれました。町名の由来は武田氏の重臣穴山信君の屋敷があったことによりますが、前途の横田氏と同じく、穴山氏の屋敷跡も武田神社のタクシー乗り場付近に看板が設置されております。母である南松院殿は、武田信虎の娘で武田信玄の姉にあたり、妻は信玄の娘である見松院殿ということから、穴山信君は武田家と親戚関係にあった武将となります。

1703anatama-shi▲穴山氏屋敷跡

 今回は上府中という土地柄らしく、武田氏の面影を感じる町名の由来を知ることができました。しかし、横田町や穴山町の由来は、現在分かっている屋敷跡とのズレがあり、看板も設置されていることから、観光客の方々にとっては紛らわしい状況になっています。

1703kanban▲町名の由来看板

 引き続き経緯を調べ、分かり次第こちらでご報告させていただきます。

文:川上明彦


※マチコレ!誌面では「大翁院」を「大応院」と誤って表記しておりました。お詫びして訂正いたします。


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六角堂
旧横田町には、信玄公の姉の牌所として勝頼が建立した、円光院末金光山西昌院というお寺がありました。京都山科の六地蔵寺から地蔵像を6躰迎え、境内に六角地蔵堂を造営、安置したということですから、この伯母は勝頼にとって特別な存在だったのだと思われます。残念ながら大正5年の火事によって地蔵像3躰が焼けてしまいましたが、復興した現在の六角堂には残りの3躰が大切に安置してあります。

場所:甲府市武田3-4-37


参考資料:甲府市統計書、角川日本地名大辞典、甲府市HP、山梨県ワインセンターHP、Wikipedia

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