戦後70年を迎えて

 私は失明の子供を背負った。妻は下の男の子を背負い、共に敷蒲団一枚ずつかかえて走った。途中二、三度、路傍のどぶに退避し、十丁ほど行ってやっと田圃に出た。麦を刈り取ったばかりの畑に蒲団をしいて、腰をおろし、一息ついていたら、ざっと頭の真上から火の雨が降って来た。
「蒲団をかぶれ!」
 私は妻に言って、自分も子供を背負ったまま蒲団をかぶって畑に伏した。直撃弾を受けたら痛いだろうなと思った。直撃弾は、あたらなかった。蒲団をはねのけて上半身を起してみると、自分の身のまわりは火の海である。
 「おい、起きて消せ! 消せ!」と私は妻ばかりでなく、その附近に伏している人たち皆に聞えるようにことさらに大声で叫び、かぶっていた蒲団で、周囲の火焔を片端からおさえて行った。火は面白いほど、よく消える。背中の子供は、目が見えなくても、何かただならぬ気配を感じているのか、泣きもせず黙って父の肩にしがみついている。

(太宰治1946)

 東京の三鷹から妻の実家がある甲府へ疎開していた太宰治は、「薄明」という作品の中で甲府空襲の経験を綴っています。正直なところ、この文章を読んでもどこかフィクションというか、物語のワンシーンのような感覚で、私たちが住んでいるこの地での出来事だと実感できない自分がいます。この時期は、さまざまなところで「戦争」という文字を目にしますし、山梨日日新聞でも甲府空襲の体験談などが多く掲載されています。
 特に今年は戦後70年という節目を迎え、各地で戦争の悲惨さや平和を訴えるイベントがいくつも催されています。我々の世代には当たり前になっている「平和」について、せめて1年に1回は真剣に考えるべき時期が今なのでしょう。

 旧町名のコーナーを連載するにあたり、過去のさまざまなモノを目にする機会が増えましたが、空襲で焼け野原となった甲府にとって、戦前から残されているモノは大変貴重です。このコーナーでもいくつかご紹介させていただきましたが、少しでも戦争について実感できるよう、今月はあらためて空襲で焼け残った建築物を見て歩こうと考えました。

 まず私が最初に思いついたのは、歩兵四十九連隊が食料庫として使っていた「赤レンガ館」。ご存知の方も多いと思いますが、山梨大学教育人間科学部附属中学校の敷地内にある赤レンガの建物です。

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 附属中学校は私の母校で、在学中だった30年ほど前は、卓球部の部室として使われていました。明治41年頃に建設された山梨県内に現存する最大規模の煉瓦建造物は、その後に保存の機運が高まり、平成14年に改築されました。国の登録有形文化材に指定された現在は、当時の歴史を伝える役目と共に、多目的ホールとしての役割も果たしているそうです。

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 こちらは昭和11年に歩兵第四十九連隊の将兵が満州へ出兵するため、進軍ラッパと軍旗を先頭に朝日町通りを行進している様子です。この方達に多目的ホールとして生まれ変わった今の赤レンガ館を見せ、「平和的な利用がされているよ」と伝えてあげたいですね。

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 こちらは空襲で焼け残った、甲府市立湯田小学校の正門です。湯田小学校は甲府第四尋常小学校として明治37年に創立。昭和18年に創立70周年を記念し、校庭600坪の拡張と正門を建立しています。甲府空襲での死者・行方不明者は1,127名に上りましたが、もっとも被害が大きかったのが湯田地区の427名と知ったうえでこの正門に触れると、胸が締め付けられる思いです。しかし歴史の証人として今も校庭に佇むその姿は、戦後教育の中で戦争の愚かさや恐ろしさをしっかりと伝えてきたのだと思います。

 ご紹介した以外にも、空襲を免れた建築物はまだあります。

昨年の8月号でご紹介した、旧富士川小学校近くの蛍橋。

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11月号でご紹介した、桜町の稲荷社祠。

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鉄筋コンクリート造りの建物としては山梨県最古で、文化庁の登録有形文化財に指定されている法人会館など、我々の日常の中の風景にさりげなく隠れています。

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 読者の皆さんも戦後70年という節目に当たる今年は「戦争」について考える機会が多いかと思います。
ご紹介した建築物を含め、歴史の証人たちに会いに行ってみてはいかがでしょうか?

文:川上 明彦