旧町名を復活させたい ~柳町(3)~


1504main

卯月は新生活をスタートさせる時期ですね。
学校が変わる人、住む場所が変わる人、
社会人になる人、それぞれが新しい道を歩みはじめます。
同時に何か新しいことへチャレンジする方も多いのではないでしょうか?


 さて、今月で3回目となる旧柳町ですが、調べれば調べるほどその歴史に驚かされます。例えば岡島百貨店ですが、創業の地が柳町ということをご存知だったでしょうか?
 今から170年程前の天保14(1843)年に、近江から来た岡島定右衛門が柳町でお茶を売り出したのがはじまりで、明治になり呉服商として大黒屋の看板を出しました。明治37年には柳町1丁目に土蔵造り2階建ての新店舗を構え、大正に入り店名を「岡島呉服店」とし、昭和に現在地へと移転しています。当時の柳町は経済の中心地としてさまざまなお店や金融機関が軒を連ねており、多くの豪商が存在してました。
 しかし昭和恐慌や戦争の影響などで、岡島百貨店のように移転をした企業を含め、今では数えるほどしか残っていないのがとても残念です。ただ、現存はしないものの、旧町名と同じく当時の面影は意外なところに残っています。

昭和初期の柳町通り

 現在の中央4丁目交差点付近(旧柳町3丁目)に村松新道という細い道があります。

村松新道
▲現在の村松新道

 なぜこの道には名前が付いていて、しかもわざわざ看板があるのかと以前より不思議に思っていましたが、実はこれが面影のひとつでした。
 明治から大正にかけて、村松新道を含めた北側の一画は、上野屋という屋号で醤油や味噌などの醸造業を行っていた村松正三の敷地でした。
 しかし本業が低迷していた為か、敷地内の一画に道を通して両側へ建物をつくり、貸店舗業を始めました。そして、昭和3年に出来たこの道は、公募によって村松新道と名付けられ、戦前の最盛期には小料理屋やカフェーなど、小さな店が30軒以上並ぶ飲食店街へと成長しました。
 村松正三は、古くは江戸時代からお茶や砂糖を商ってきた上野屋の屋号と、歴代の主人である甚蔵の名からとって「上甚」と呼ばれた「村松甚蔵」の一族です。上甚の全盛期は明治中期の三代目甚蔵こと村松育造の頃となりますが、この三代目甚蔵は大変素晴らしい人物だったようです。
 明治40年に起こった大水害の時は被災者救済に奔走し、大正4年には山梨県に多額の寄付を行い、陸軍省に接収されていた甲府城跡を県へ払い下げさせ、豪商「上甚」の義挙と賞賛されました。更には大正8年に県会議員、昭和2年には衆議院議員を務めたということで、甲府の文化や生活に大きな影響を与えた大人物だったのだと分かります。もしこの方がいなかったら、現在の舞鶴公園はどのような姿になっていたのでしょう?この上甚の跡地ですが、現在は駐車場となっています。

上甚の跡地の駐車場
▲上甚の跡地の駐車場


 次の写真は現在の中央4丁目交差点付近から南側を写した昭和初期の柳町通りです。左手に見える建物は商工会議所で、大正15年に甲府市役所跡地に建てられたということです。
 商人の町という印象が強かった柳町ですが、行政機関もあったのですね。さて、この商工会議所として建設された美しい建物は現在も残っており、法人会館として利用されています。
 鉄筋コンクリート造りの建物としては山梨県最古で、文化庁の登録有形文化財とのこと。あれだけ酷かった甲府空襲を逃れた訳ですから、大切に使って後世に残してきたいですね。

昭和初期の柳町通り
▲昭和初期の商工会議所

現在の柳町通り
▲現在の法人会館

初代市役所庁舎
▲初代市役所庁舎


 さて、3回に渡って柳町について調べましたが、歴史のある素晴らしい町ということがよく分かりました。
 まだまだご紹介しきれない情報は多いのですが、それは違う機会にするとして、次回からは次の町へと話題を移したいと思います。
 何件か「うちの町はいつ取り上げてくれるの?」とお問い合わせをいただいてますが、出来るだけ全ての町をご紹介したいと考えています。もし資料をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひお貸しください。

文:川上明彦


MattoCileciプレゼンツ
「旧町名を復活させたい!トークイベント」
開催延期のお知らせ

4月11日に予定していましたトークイベントは諸般の事情により開催を延期いたします。開催を心待ちにされていた皆様には、大変ご迷惑をお掛けいたします旨、深くお詫び申し上げますと共に、何とぞご理解ご了承の程よろしくお願い申し上げます。
なお、代替の日程につきましては、日程が決まり次第改めてご案内させていただきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です