旧町名を復活させたい 番外編~遊亀公園附属動物園 前編~

9月は台風15号の被害で、関東圏は大きな打撃を受けました。
電気が使えない生活は、本当に大変だったと思います。被害を受けた方々には、心からお見舞い申し上げます。

非常時こそ必要とされる情報源である新聞を、非常時でもできる限りみなさんにお届けするために、発電機など電気を確保する設備は整えてありますので、改めて社内で使い方を確認したいと思います。

さて、甲府市民にとって馴染み深い、遊亀公園附属動物園。しかし改めて考えてみると、なぜ県都甲府市の中心地に動物園があるのでしょう。
しかも大正8年の開園ですから、歴史ある動物園と言えます。皆さんは動物園の由緒を知っていますか?

今回は2019年に100周年という節目を迎えた、甲府市遊亀公園附属動物園の歴史を紐解いていきたいと思います。\(^O^)/

元々遊亀公園の敷地は明治初期まで一蓮寺の所有地でしたが、県に移譲され公園となりました。
その後、大正7年に甲府市のものとなり、公園内には木造平屋の事務所やあずま屋、滑り台、鉄棒、シーソーなどが設けられました。
大正8年には動物園が開園。現存するものでは、上野動物園(東京都)、京都市動物園(京都府)、天王寺動物園(大阪府)に次ぎ、4番目の歴史を誇る動物園となります。

開園間もない昭和初期の動物園入口

開園後は年間入園者数を毎年大幅に伸ばし、大正13年には当初に比べ、約3倍へと拡大。
宮内省から丹頂ヅル1つがいを下賜されたほか、ヒグマやヒョウなどの猛獣や、シカ、サル、リス、ペリカン、クジャク、インコなどが揃っている状況となりました。

動物数が増大したことで飼育が難しい状況となった甲府市は、優秀な獣医を求め、2代目の園長として小林承吉氏に白羽の矢を立て大正13年4月に就任します。
小林園長は動物園の設備充実だけでなく、子ども達に水遊びの場を提供したり、12人乗りの箱形ブランコなどもつくり、ミニ遊園地のような運営を目指し、入園者数を伸ばしていきます。

動物園を楽しむ子ども達(昭和10年頃)

大正13年の年間入園者数は約91,000人、14年は約125,000人、昭和元年には約152,000人。
多くの市民・県民から支持される存在へと急成長したことが分かります。
また、大人3銭、子ども2銭の観覧料徴収を開始し、昭和2年には独立採算での運営が可能に。大正末期から昭和10年代に掛けて、動物園は最盛期を迎えます。

昭和初期の動物園には、人気者のゾウがいました。
体重7,500kgという巨体のゾウは、座り込んで人を背に乗せて立ち上がるといった芸達者ぶり。
それもそのはず、もともとサーカスにいたゾウを小林園長が引き取ったのです。
ゾウは感情の起伏が激しいことから、サーカス時代には調教師を手こずらせ、右耳は鉄製の手かきで激しく突かれたために破れていました。
動物園に来てからも、機嫌が悪くなると両耳をバタつかせて大暴れしたり、鼻で自分のフンを巻き付けてお客さんへ投げつけるなど気性の荒さが目立ちましたが、その性格が来園者には大ウケだったようです。

巨体のゾウの足には鎖が巻かれているが、
暴れると引きちぎれそうだったとのこと

動物園の入園者が年々増えていく一方で、昭和恐慌や満州事変の影響で長引く不況に、市内の商工業者や農家は疲弊していきます。
そのような社会情勢の中、昭和10年代半ば頃から食料増産運動の一環として、遊亀公園の池でコイの養殖がスタート。飼育担当は小林園長をはじめとする動物園スタッフです。

太平洋戦争を目前とした昭和16年11月20日に甲府市から町内会へ、「食肉魚介類が不足しているが、食料増産の一環として遊亀公園で養殖してきたコイを食用として配給する」旨の文書が配布され、配給当日は早朝から長蛇の列だったようですが、食料が足りないのは動物も同じです。
大正末期に宮内省から下賜されたライオンは、最後の1年はコイだけしか与えることが出来ませんでした。

昭和10年頃の遊亀公園の池

昭和20年7月6日の23時23分。甲府盆地に空襲警報が鳴り響きます。照明弾によって真昼のように照らし出された甲府市中心部に、B29約120機による焼夷弾の絨毯爆撃が開始。
「たなばた空襲」と呼ばれるこの空襲によって、市街地の約74%が灰燼と化し、死者は1,127名(男性499名、女性628名)に上りました。

そして、最も被害が大きかったのが427名の死者を出した湯田町。隣接している動物園も大きな被害を受けたのです。
(11月号へつづく)

文:川上明彦

参考資料:山梨日日新聞(昭和62年連載「甲府市遊亀公園附属動物園70年の歩み」)、総務省HP、山梨百年(山梨日日新聞社)、Wikipedia