旧町名を復活させたい~飯田 前編~


7月9日付の山梨日日新聞25面に、「空襲74年 色あせぬ記憶」という特集記事が掲載されていました。
その中で、現在の甲府市総合市民会館付近に住まわれ、7歳で甲府空襲を経験された内池さんが仰っていた「自然災害である地震や大雨は防げないが、人と人がする戦争はなくすことができる。」という言葉がとても印象的でした。
ここのところ、毎年のように大きな災害に見舞われる日本。報道で現地の様子を知る度に胸が痛みます。
自然と仲良く共存していく環境づくりと同時に、戦争は絶対にしないという強い思いを持ち、子ども達の明るい未来を考えていきたいですね。


さて、2019年は、武田信虎公が川田町から躑躅ヶ崎へと館を移してから、500年目となる節目の年です。

さまざまなところで行われている「こうふ開府500年」のイベントは、「2019年に開府から500年目を迎える」という事実を知って貰うことが目的では無く、節目の年を切っ掛けに「我が町甲府」の歴史を知り、誇りを持ち、「これからの甲府」について皆で考えていくことに重きが置かれています。
そんな「こうふ開府500年」を盛り上げたく、今月も町名から甲府の歴史を紐解いていきたいと思います。
\(^O^)/

飯田の地名は歴史が古く、南北朝期から戦国期にかけての郷名として記録が残っています。
名称の由来は立地条件のようで、自然堤防などの小高いところにある田地からきているようです。
自然堤防とは、河川から水が越流することで、河岸沿いにできる地形を指します。

このような土地を氾濫原と言いますが、扇状地などに比べ水を得やすいことから、古くから水田として活用されてきた模様。
大正10年の地図を見ると飯田のほとんどが田畑ですから、太古から近代にかけて、長くその役割を担ってきたことが分かります。

地図には集落の中に、八幡社という文字が見えます。
こちらの八幡神社。



創立の年代は不明ですが、武田有義が当地を領有の代に、韮崎の武田八幡宮もしくは鎌倉の鶴岡八幡宮より勧請建立し、領地の守護社としたそうです。
源頼朝が鎌倉に幕府を置き武家政治をはじめるに当たって、鶴岡に八幡様をお祀りしたことから、各地の源氏一門はこれにならったとのこと。

武田有義といえば、平安末期から鎌倉時代にかけて活躍した甲斐源氏の武将。
聡明で武術に優れていたことから、平重盛に仕え、兵衛尉(ひょうえのじょう)という高官を務めました。

皆さんは源平合戦において、平氏一門が甲斐源氏の存在を脅威に感じていたと知っていましたか?私は恥ずかしながら、大きく脚色された牛若丸と弁慶といったドラマは知っているものの、歴史的な事実はあまり把握しておらず、甲斐源氏が源平合戦に大きく関わっていることも深くは知りませんでした。

当時、甲斐源氏の棟梁は有義の実父である武田信義でしたが、源頼朝の呼びかけで諸国の源氏が立ち上がりの動きを見せたとき、平清盛は真っ先に「源頼朝と武田信義を討ち取れ」と名指ししたといいます。
それも京へと上り、清盛の子である重盛に仕え、絶大なる信頼を得た有義の優秀さがあってのことかもしれません。

有義はたまたま父からの呼びかけで甲斐の国に戻っている時、頼朝が立ち上がったことを聞き、信義から平氏打倒の相談を受けます。
しかし、平氏の強大な力を知る有義は、甲斐源氏挙兵については反対の立場だったようです。

結局は棟梁である信義が挙兵することを決め、有義もこれに従い富士川の戦いなどで活躍をしますが、その影響で京に残してきた有義の妻子は斬首。
兵衛尉という立場も解任。
その後、木曽義仲の征討、一ノ谷の平家征討、中国・九州の平家征討、壇ノ浦の戦いなどなど、長期に渡り戦い続けることになります。

全ての戦いにおいて甲斐源氏は活躍を見せますが、その素晴らしい戦果に自分の立場を危うくすると感じた頼朝は、甲斐源氏を排斥していきます。
元々甲斐源氏も由緒正しい家系で、頼朝に仕えるのではなく、同等な立場と考えていたことから、頼朝の理不尽さに対し、有義は大きな不満を抱いていました。
しかし、不思議なことに頼朝は、そんな有義を遠ざけることはしませんでした。

文治4(1188)年、鶴岡八幡宮で大般若経供養会が行われるにあたり、頼朝は有義に剣持の役を命じますが、有義はこれを辞退します。
頼朝は激怒しますが、なぜか有義は打ち首となりませんでした。
頼朝には猜疑心の塊のような人物という印象がありましたが、このエピソードから、妬みや僻みに心を支配されていた訳ではないことが分かります。
もしかしたら、剣持を断ることで、自分の立場が危うくなることを分かっていながら辞退した有義に、尊敬の念を抱いていたのかもしれません。

頼朝の側近として長年仕えてきた梶原景時は、その横暴さから家人衆の反感を買っていました。
頼朝亡き後、2代将軍は18歳の頼家が継承しますが、これを切っ掛けに家人連合によって、景時排斥運動が起こります。
失脚をした景時は倒幕を考え、総大将には正当な源氏一門として有義を立てようと、使者を送ります。
これを受けた有義は出兵を決意します。
冷静沈着な有義にしては、かなり思い切った行動だと感じますが、甲斐源氏の棟梁として征夷大将軍になるという志には逆らえなかったのかもしれません。
直ぐに甲斐の国を出発し、景時と合流する為に駿河国へと入りますが、その地で景時が討たれたことを知ります。

景時の企ては、幕府に全て漏れていたのです。
「ここまでか」と天を仰ぐ有義。
甲斐の国へ戻れば他の甲斐源氏に迷惑がかかります。
有義はわずかな郎党と共にいずこかへと行方をくらまし、歴史の表舞台から姿を消します。

武田信虎の時代には、駿河今川氏の武将、福島正成によってこの飯田の地まで攻め込まれており、その歴史を伝える石碑が荒川沿いにひっそりと建っています。


大永元年、駿河今川氏親の臣、福島正成は大軍を率いて富士川沿いに河内路を北上し、国中地方へと攻め入りました。
大井氏の有する富田城を攻略し、穗坂高原の登美の竜地に陣を構えたところ、信虎は出来上がったばかりの要害城へ懐妊中の大井夫人を避難させ、飯田河原へ打ち出て60日余に渡り福島軍と対峙しました。
1万5千の福島軍に対して、国人層の離反によりわずか2千余の信虎軍でしたが、10月16日の合戦で勝利を収めました。
戦勝を聞いた大井夫人は安堵して、11月3日に男子を出産。
この子が晴信(後の信玄)となります。
信虎は飯田河原の戦死者の菩提のため、坂地蔵を戦跡に建てましたが、寛政年間の荒川の氾濫により流出したようです。

ちなみに信虎はこの合戦の前に、前途の八幡神社で戦勝を祈ったとのこと。
信虎は川田から躑躅ヶ崎へと館を移す際に、八幡神社も一緒に遷座しており、現在も相川小学校の南西側に、峰本古八幡神社として、峰本自治会館と棟続きの形で残っています。
(2017年2月号でご紹介)


信虎の時代になっても、甲斐源氏にとって八幡様は特別な存在で、この飯田八幡神社も大切にされていたことが分かります。

次号につづく

文:川上明彦
参考資料:甲府市統計書、角川日本地名大辞典、Wikipedia、武田有義とかんかん地蔵(著者:田中尚純、発行者:光明山法輪寺)