旧町名を復活させたい~志磨の郷 湯村 中編〜

 いよいよあと数日で平成が終わります。
 5月1日から「令和元年」。皆さんは新元号に、どんな思いを描いているでしょうか?令和の典拠となった万葉集の歌碑が、山梨市の「万力公園 万葉の森」にいくつか設置されているようです。GWには散策をしながら、新しい時代の目標を考えるのも良いかもしれません。


 さて、2019年は、武田信虎公が川田町から躑躅ヶ崎へと館を移してから、500年目となる節目の年です。
 さまざまなところで行われている「こうふ開府500年」のイベントは、「2019年に開府から500年目を迎える」という事実を知って貰うことが目的では無く、節目の年を切っ掛けに「我が町甲府」の歴史を知り、誇りを持ち、「これからの甲府」について皆で考えていくことに重きが置かれています。
 そんな「こうふ開府500年」を盛り上げたく、先月に引き続き、湯村の歴史を調べていきたいと思います。\(^O^)/

 湯村と武田氏との縁は、信玄や頼朝だけでなく、家臣の逸話もいくつか残っており、そのひとつが「鬼の湯伝説」です。
 武田信虎、信玄に仕えた多田三八郎淡路守満頼という足軽大将は勇猛で、戦功は29度に及び、全身に27カ所の傷があったと伝わります。
 この三八郎が湯治のために武州より湯村温泉を目指している途中、天目山の麓に差しかかったところ、突然、杉の枝の上から腕が伸び「三八」と名前を呼びながら三八郎の髪を掴みました。三八郎は「心得たり」と刀を抜いて頭上を切り払うと、長さが九尺(約3m)あまりの片翼が落ち、怪物は逃げ去りました。
 その後、湯村に着き湯治をしていると、ある雨風の激しい日に、大きな体に刀傷のある法師が温泉に入ってきました。 思わず「貴僧の怪我は如何されました?」と尋ねると、「この傷は、昔、多田三八郎という者と戯れ、手傷を負ったものだ」と答えました。
 この話を聞いた三八郎は「三八、ここにあり」と叫びながら刀を抜いて飛びかかり、驚いた法師は湯村山へと走って逃げました。 この出来事から、この温泉を鬼の湯というようになったそうです。(写真1)
 実は湯村温泉開発の祖も、大野主水(おおのもんど)という、武田家の家臣といわれています。大野主水は甲斐国大野村(現山梨市大野)の出身で、武田家には蔵前衆として仕官していました。
 蔵前衆とは、金銀や米穀などを司り、国主が留守の時は居館を警護し、政務を代行する役割を担っていました。武田家が滅亡した後は、徳川家康に仕官し、家康直属の家臣である四奉行の1人として活躍しています。
 主水は武田家に仕えていた時代から、湯嶋(湯村)温泉の効用に着目しており、開発に力を注いでいました。
 慶長2(1597)年には、湯嶋の守り神「湯権現」を祀る「湯谷神社」を守るべく、湯谷山松元寺を設けて開基となります。

 湯谷神社は貞和三(1347)年に、温泉の湧出を発見したことで勧請したと伝わる神社で、秋葉権現と大宮さん、湯権現が合わせて祀られています。湯谷神社の鳥居前にある鷲の湯には、大晦日の24時から元旦の6時までは、湯の神が入浴することから、人は入ってはいけないというきまりがありました。
 ところがある日、それを無視して入浴した男がいましたが、翌朝鷲の湯入口にあった杉の大木にはりつけとなって死んでいたという、怖い伝説が残っています。(T_T)

 主水が開基となる松元寺は、古くから身代わり観音として有名ですが、本尊の聖観音菩薩像がそれでは無く、千手観音菩薩が本当の身代わり観音であって、今も寺に帰って来ていないという説があるようです。

 参道左手にある千手観音と書かれた石碑は、早く帰って来て欲しいという願いも込められているとのこと。
 また松元寺は、北山筋の観音霊場めぐりの第一番目とされており、参道右手に「北山一番松元寺」と刻まれた石塔を見ることができます。

 一番札所ということですから、巡礼が盛んであった江戸時代は、かなり賑わっていたのだと思われます。ちなみに湯村温泉には武田家以外にも、天正18(1590)年に、徳川家康が入浴したという記録が残っていますが、その年は豊臣秀吉からの命で江戸城へ入城した年。旧領の三河から江戸へ向かう途中に立ち寄った際に、主水が勧めたのかもしれませんね。(^_^)

 江戸時代の湯村は、多くの湯治客で賑わっていたようです。徳川綱豊や柳沢吉里が治めていた時代は、湯小屋、湯場共に村が管理をし、利用者は湯銭なしで入湯できたようですが、徳川中期になると税金を納めるようになり、利用者から湯銭をとるようになりました。
 延享4(1747)年の「湯銭并人数書上帳」という資料によると、年間で2,000〜4,000人の利用客がいたようで、日帰り客を含めるともっと多くの人数が入湯していたことになります。
 江戸時代後期に活躍した浮世絵師、葛飾北斎の「勝景奇覧・甲州湯村(しょうけいきらん こうしゅうゆむら)」という作品には、湯川と思われる河川を背景にし、休憩施設などが立ち並び、施設の外には旅姿の男女が描かれており、賑わいを感じさせます。

 おそらく葛飾北斎も、あつ〜い湯に浸かり、旅の疲れを癒していったのでしょうね。

(6月号へ続く)

文:川上明彦
参考資料:角川日本地名大辞典、甲府湯村温泉郷HP、千塚・湯村温泉の歴史 遺跡(史跡)と文化遺産、文化遺産オンライン