旧町名を復活させたい 番外編 ~追放後の信虎〜

 
12月号に掲載した「穗坂路の起点 塩部」では、塩部村の村民が、恩人である甲府代官中井清太夫を祀った「神明神社」をご紹介しましたが、この回をご覧になった読者様から、神明神社の「紋」から中井清太夫の存在が確認できるという情報を頂きました。
 早速調べてみたところ、屋根瓦に発見!確かに「井」の字を変形させ「中」という文字が中心にあり、「中井」が読み取れます。
 塩部村の方々は、心から中井清太夫に感謝していたのだなぁと、あらためて感じました。塩部にお住まいのMさん。情報提供をありがとうございました!


 さて、今月も引き続き、武田信虎について掘り下げていきたいと思います!\(^O^)/

 駿河での隠居を受け入れ、「無人斎道有(むじんさいどうゆう)」と名乗っていた信虎は、永禄元(1558)年辺りに上洛し、在京奉行として足利義輝に仕えます。公家の山科言継(やましなときつぐ)の記した序列では、ほとんどが公家衆の直後、武家衆の筆頭に記されており、続いて記されているのが義輝側近の大館氏、政所執事の伊勢氏ら幕府の重臣とのことですから、義輝からは相当手厚い待遇を受けていたのだと分かります。
 室町幕府において守護は在京が原則でしたが、実際は殆どが京に居ない中で、数少ない在京(前)守護の信虎は高い席次が与えられていたと思われます。また、公家衆との交流も活発に行っていたようで、飛鳥井雅教(あすかいまさのり)邸で開かれた蹴鞠会には、内者を参加させていたり、大寺社とも親密な関係を築き、武田家の在京外交官のような働きをみせていたようです。
 更に、在京中のエピソードで興味深いものがあります。信虎は永禄3(1560)年に、17歳の末娘を権大納言菊亭晴季(きくていはるすえ)に嫁がせますが、この時の様子が狂歌として残っているのです。
「むこいりを/まだせぬ先の/舅入り/きくていよりは/たけた入道」
「舅」は「しゅうと」と読み、配偶者の父
親である信虎を指します。 「菊亭よりは武田入道」と「聞く体よりは猛けた入道」とがかけられており、婚儀もまとまらないうちに、信虎が晴季の顔を見に菊亭家へ押しかけたエピソードが詠われています。親バカぶりもそうですが、狂歌として親しみを持って詠われる信虎は、我々が持っているイメージとは明らかに違います。むしろ、文化や芸能をはじめ、幅広い知識があり、社交的で人間味溢れる人物のように思えてきます。

 その後、京都で仕えた足利義輝が謀殺されるなど、時代が大きく変わっていく中、当初は同盟関係だった武田氏と織田氏の関係も急速に悪化。足利氏の家督を継いだ義昭が、信長に兵を挙げたことをきっかけに、信虎は京都を離れます。
 同時期に息子の晴信(信玄)が死去し、勝頼が家督を相続しますが、その事が影響したのか、信虎は甲斐への帰国を打診します。勝頼は家督相続が不安定だったこともあり、信虎の帰国を認めず、信濃の高遠城で面会をしますが、「甲陽軍艦」にはその時の様子が記されています。
 信虎はまず勝頼に年齢を、次に母親を尋ねますが、母が諏訪勝重の娘と聞いて不快な表情を浮かべます。続いて、重臣達が名家を継いで姓を改めていることに苛立ちを募らせ、最後に春日虎綱の父の名を聞いて激しく憤り、「百姓を取り立てたのは信玄の分別違い」と罵ったとのこと。ここに描かれているのは、まさに暴君信虎です。
 春日虎綱とは、高坂弾正の名で知られている武田氏家臣で、元は石和の大百姓春日大隅の子でした。信玄に見出されて近習となり、足軽大将、海津城代など異例の出世を遂げ、川中島の戦いなどでも活躍をしました。 後に信玄の言行や行動哲学などをまとめ、書物にして勝頼の側近達に贈りますが、これが甲陽軍艦の原本とされています。
 信虎は、その後も甲斐の地を踏むことはなく、天正2(1574)年3月5日、信濃伊那郡の娘婿、禰津神平(ねつしんぺい)の所で没します。享年81歳。葬儀は孫の勝頼が甲府の大泉寺にて執り行い、同寺を墓所と定めました。

 後世に伝わる信虎のイメージは、晴信が家督をスムーズに継げるよう、意図的に喧伝されたものと、物語を面白くするための脚色があるようです。信虎が暴君であれば信玄が輝くことから、甲陽軍艦では特にそう表現されているのかもしれません。
 但し、追放された事実や、その後の甲斐国に混乱が起きなかったこと、正室の大井夫人(晴信の母)が駿河へ付いていかなかったことなどを考えると、つくられたイメージと、そう遠くないのかもしれません。しかし、そういう人物だからこそ、混乱していた甲斐国の統一が成し得られたのでしょうし、信玄も信虎の基盤があったからこそ、活躍できたのではないでしょうか?
 企業で言えば創業者。信虎はゼロからイチを生み出す能力と、情熱を持った人物だったのでしょう。私は経営者として三代目になりますが、信虎のイメージは初代の祖父と少々重なるので、そう思えてなりません。

文:川上明彦


大泉寺

前号でもご紹介しましたが、甲府駅北口には、こうふ開府500年に合わせ、甲府商工会議所が武田信虎像を設置しました。こちらを出発点として、信虎が眠る大泉寺まで、ウォーキングをしてはいかがでしょう?
大泉寺は信虎が大永元(1521)年に菩提寺として開基した名刹です。
信虎のお墓は本殿の西側にあり、写真中央の五輪塔がそれとのこと。途中で、武田家との縁が深い、八幡神社に立ち寄るのも良いかと思います。

▲武田信虎公之像

▲信虎墓所

▲五輪塔

【ウォーキング経路】 (約20分)

出発(武田信虎像) → 武田通りを北上 → 武田二丁目交差点を右折 → 突き当たりを左折
→ 八幡神社の参道を右折 → 八幡神社 → 藤川を渡り北上 → 大泉寺入口を右折 → 大泉寺

八幡神社の件は、2017年2月号 旧町名を復活させたい〜宮前町〜をご覧ください。

参考資料:武田信虎のすべて 柴辻俊六(編)、甲斐武田一族 柴辻俊六、Wikipedia