路線バスでゆく かいゆうほ〜若彦路編(2)〜


➊後期若彦路は入ってすぐ左手で、道祖神と秋葉神社の石塔、常夜灯が迎えてくれる。


 8月6日付の山梨日日新聞に、「千年に一度」クラスの大雨が降った事を想定し、県内17河川に氾濫の恐れがあるという記事が掲載されました。浸水するエリアは知っているつもりでしたが、あらためて記事を読むと、思い違いをしている事に気付けました。毎年日本のどこかで災害が発生しており、明日は我が身だと感じます。防災の日を迎えるにあたり、我が家も地震だけでなく、水害に対しても備えを万全にしたいと思います。

 さて、これからの高齢社会で、大変重要な役割を担うであろう路線バス。もっと路線バスの事を知り、利用していただき、潤いのある生活を送っていただきたいという思いを持ち、このコーナーを連載しております。
 今月号も引き続き、甲斐の九筋のひとつである、若彦路の面影を探して「かいゆうほ」です。\(^O^)/





 佐久神社のある辺りは、古くから水害に苦しめられた地域でした。明治40、43年、大正14年に平等川の堤防が決壊し、沿岸の諸村一面を泥沢地にしてしまったそうです。濁流と共に押し流された砂礫は、1.5〜2.0メートルまで積もりました。
 佐久神社の本殿(➋)も、当初はもっと高い位置にあったそうですが、地面が高くなったことから今の位置にあるということです。



 河内バス停を出発し、小石和を過ぎ、蛍見橋を渡り、八代南中央バス停へ。このバス停付近には、グリーンファームという八代町の農産物直売所がありますが、そちらを右手に見て100mほど通り過ぎると「臼の清水」が見られます。(➌)



 江戸時代に、地元の人たちが湧き出る泉の水を溜めるため、石臼をふせておいたことから、その名が付いたといわれているこの湧き水。その名の通り今でも澄み切っています。若彦路沿いには「清水」と呼ばれていた場所がいくつかありますが、現在も水が湧き出ているのはここだけのようです。
 当時の旅人はここで喉を潤し、一服ついたのでしょうね。(^_^)
 長い歴史の中で地形が変わり、ルートが曖昧だった若彦路も、この辺りから当時の面影が色濃く出はじめます。
八代四ツ角バス停へ。
 県道313号線を北東に向かって600mほど進んだところに、この集落への入口があり、若彦路の看板が立っています。この辺りは、時代と共に移り変わった若彦路が3筋あり、ここは「古道」とのこと。(・o・)
 県道313号線を八代四ツ角方面に200mほど戻ると、中期の入口。
 更に80mほど戻ると、後期の入口です。

➍古道入口


➎中期入口


➏後期入口


古道の穏やかな坂を200mほど上がっていくと、左手に「清道院」があります(➐)。



 こちらは武田氏中興の祖と言われている武田信武の子、武田信成の居城「赤甲城」跡で、応永5(1398)年、信成が信州へ出陣中に落城した際、夫人が身を投じて自害したという井戸が残されています。
 この井戸は、「ミナイノ井」といい、一日のうちに数度水色が変化するという言い伝えがあったそうですが、現在は枯れてしまっています(➑)。



 清道院から150mほど上り、幅2mほどの細い道を右折し、100mほど進むと能成寺跡です(➒)。貞和年間(1345〜1350年)に甲斐守護武田信守が開基したもので、後に武田信玄が甲府へ移し、甲府五山のひとつとした能成寺のルーツがここなのですね!\(◎o◎)/!



 看板を読むと、藪の中に多数の五輪塔などが散在していたのを、地元の方々が保存舎を建て納めたとあります。その中には建武、貞和、延文、応安、永和、康暦、永徳、応永などの年号が刻まれたものがあるということで、歴史を感じさせますね。
(次回へつづく)

文:川上明彦

参考資料:角川日本地名大辞典、Wikipedia、望月達夫著「甲斐の古道『若彦路』をたずねて」

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