旧町名を復活させたい 〜中道往還 中編(2)〜


 台風5号は、山梨県内にも大きな爪痕を残しました。大月の新聞販売店では、土砂のために、数日間新聞が届けられない地域が出たそうです。梅雨の季節が1番多く降ると思いがちな雨ですが、実は9月の降水量が年間でもっとも多いとのこと。9月1日は防災の日。火事や地震だけでなく、水害や土砂災害についても考える機会にしたいですね。
 ニュースコムでは、地域に必要とされる企業を目指す立場から、防災グッズの販売も行っております。ご自宅までお届けしますので、折込チラシをチェックしてくださいね。



 さて、今月も中道往還を取り上げます。中道往還とは、甲斐の国と駿河の国を結ぶ街道のひとつで、河内路と若彦路の中間に位置することから「中道」と呼ばれるようになりました。他の2経路の真ん中を突っ切る形でつくられたルートということで、駿河までは最短距離の20里(約78km)ほどだったそうです。その道のりを、当時の人たちはどのような思いで、どんな風景を見ながら行き来していたのでしょうか?

 小瀬スポーツ公園西交差点を過ぎ、南へと進んでいくと、下鍛冶屋町交差点となります。


 下鍜冶屋の由来は、鍛冶師に関係した村が移転して生じたものとのこと。
もともとは小瀬村の一部だったようですが、江戸期から明治8年にかけて下鍛冶屋村となります。上鍛冶屋村は無かったようですから、甲府城下町の旧鍛冶町を「上」に見立てて、下鍛冶屋と読んだのでしょうか?
 更に進んでいくと、落合町の交差点となります。


 町名は小瀬と同じく地形から付けられたようで、笛吹川とその支流である平等川や荒川が落ち合う場所だったからとのこと。

 落合の交差点を過ぎると小曲町へと入ります。町名の由来はやはり地形からきており、西南の村の境で川が曲がっていたからとのこと。尾曲とも書いたそうです。現在はイチゴ狩りのイメージが強い小曲町ですが、昭和の大合併以前は浅井村の一部として、米麦や養蚕を中心とする農業地帯だったそうです。

 更に道なりに進んでいき、中道橋へと到着。中道橋が最初に架けられたのは明治の頃で、それまでは舟で川を渡っていたようです。
 写真③は中道橋を渡り、笛吹川を少し南下した場所にある船着き場跡辺りで、当時は川を渡るだけでなく、富士川水運の船着き場も兼ねていました。石碑は「那口翁頌徳碑」。明治時代に山城村の那口熊蔵氏が私財を投じて仮橋を掛けたり、県に働きかけを行ったことで明治33年に本橋が完成した旨などが記されています。


 船着き場の名残として残る「浜集落」を抜け、県道113号線へと戻りますが、この辺りは上曽根町となります。由来は古くこの地に居を構えていた曽根氏の姓にちなむとのこと。下曽根町に対して、上曽根町となります。
 暫く進み、宮下という地名看板の下に「一里塚」という文字を発見。現存するのでしょうか?


 探してみたところ、ありました!一里毎に塚の上に榎が植えられていたそうですが、現在はここだけしか残っていないようです。


 県道113号線を更に南下し、徳川家康から吉國山という山号を賜ったという龍華院を越え、国道358号線を左折します。ちなみにここで国道は、一旦笛吹市へと入ります。普段通っている時は気づきませんでしたが、精進湖線のこの一部分だけ境川町なのだと不思議に思いつつ進み、間門の交差点へと到着。


 古くは馬門と記したとも言われており、武田氏時代には中道往還を警護する士が置かれていたようです。中道往還は商売の道だけでなく、軍用道路としても使われていた訳ですから当然ですよね。坂道を登っていくと、上向山町へと入ります。由来は甲府の南の山麓に立地することによるとのこと。下向山町に対して、上向山町となります。
 更に356号線を登っていくと、右左口の交差点へと到着です。


(次号の中道往還最終回へと続く)
文:川上明彦

参考資料:甲府市統計書、角川日本地名大辞典、Wikipedia

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旧町名を復活させたい!フォトワークショップ

 旧町名を復活させたい!を連載することで、戦前の写真が空襲によって焼けてしまい、あまり残っていないことを知りました。何気ないスナップも「この頃は道路が舗装されていなかったんだな」や「当時の子供はこんな遊びをしていたんだ」、「ここにこんな看板があったんだ」など、現代を生きる我々にとっては、貴重な資料となったはず。写真は思い出だけでなく、歴史を後世に伝える意味でも有効な媒体です。
 そんな想いから、現在の町並みを後世に伝えるために、プロカメラマンの小嶋三樹さんにご協力をいただき「旧町名フォトワークショップ」を開催します。

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