新撰組が山梨に!?~甲州勝沼の戦い

幕末のヒーロー坂本龍馬。彼等の仲間達をバッタバッタと切り倒した幕府お抱えの先頭集団

 

新撰組!!!

 

局長の近藤勇を筆頭に、鬼の副長 土方歳三、一番隊隊長 沖田総司などなど。

新撰組のその人気は高く、今現在も彼等のファンは数多くいますよね。

そんな新撰組が、山梨で新政府軍と一戦交えたって話。ご存知ですか?

今もその古戦場跡が残っているんですよ!あの有名な国道の脇にw

そして、その戦いには、意外な人物の秘話が隠れていました(こぼれ話参照)。

 あの新撰組がなぜ山梨に来たのか?まずは、ここからお話しなければなりません。

 

時は、幕末末期慶応4年(1863)。

新撰組局長 近藤勇は、江戸城で幕臣 勝海舟と会い、天領である甲府を新政府より先に

押さえるよう出陣を命じられました。(一説では、江戸開城を控えた勝が、暴発の恐れのある

近藤たちを江戸から遠ざけたとも言われています)

新撰組は「甲州鎮撫隊」と名前をかえて、その年の3月1日に江戸を出発!甲府に向かいました。

(沖田はもちろん、永倉新八や原田左之助も同行)

 

近藤は混成部隊を鼓舞するため、行軍中に大名旅行のように振る舞いました。それに加え、

天候悪化なども重なり、時間を浪費。

(ノロノロしていたため、沖田の病状が悪化!江戸に帰ってします)

そうこうしているうちに土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが

先鋒総督府参謀として、3000の兵を率いて甲府城に入ってしまいます。まさに自爆!!!!

 

甲州鎮撫隊は、ようやく勝沼(現在の甲州市)まで進軍。甲州街道と青梅街道の分岐に

陣をひきます。300いた兵も、新政府軍の最新鋭武器とその数に、ビビリまくり121人まで

減ってしまいます。そこで、天下の近藤勇!「会津の兵が加勢にかけつけている」と

ホラを吹き、なんとか脱走兵を防ぎました。

土方はこの間に、神奈川へ赴き、旗本衆に援助を頼みますが、ガン無視!

 

3月6日、甲州鎮撫隊 圧倒的劣勢の中、戦闘が始まります。

3000 VS 121 !!!!

この戦闘中、なんと!近藤のホラがばれてしまい兵は逃亡。

その結果、甲州鎮撫隊は八王子に退却した後解散!江戸へ敗走!

こうして、あっ!という間の戦闘は、新政府軍の圧勝で幕を閉じました。

この戦いのことを、「甲州勝沼の戦い」または「甲州柏尾戦争」と呼びます。

(この後、房総へ逃げた近藤。今度は捕らえられ処刑されます。)

 

はい、ようやく本題です。この「甲州勝沼の戦い」の古戦場跡が、現在国道20号沿いに

残っています。甲府から東京方面へ進み、勝沼インター入口から車で2~3分のところに、

彼の銅像が立っています。

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威風堂々と立たれているのは、この方!

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この銅像の入口には、古戦場跡だと示す看板も立っています。

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東京方面から甲府に来る際は右手に、甲府方面から東京に行くと左にあります。

目印は「深沢入口」という信号。この信号の脇にド~~ンとございます。

戦いのいきさつをお話しすると、新撰組はこの戦い自滅気味に動いてしまいますが、

ファンにはたまらない銅像なんでしょうね。この取材に行った時も、川越ナンバーの車が

嘗め回すようにビデオ撮影をしておりましたw

 

あの有名な新撰組!実はこの山梨の地を踏んでいた!というお話でした。

興味のある方は一度訪れてみては?

 

<こぼれ話>~板垣退助は、甲州の民の支持を得ようと板垣になった!って知ってました?

この「甲州勝沼の戦い」の直前。美濃の大垣についた2月14日が、武田24将の一人、

板垣信方の没後320年にあたっていました。甲斐源氏の流れを汲む板垣氏の後継であるという

家の言伝えを示して、甲斐の人たちの支持を得ようと、先祖の旧姓とする板垣姓に改姓しました。

この改姓の後、退助の目論見どおり、甲斐の民の支持を受け甲府城に無事入場しました。

 

 

 

 

 

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