第25回 戦災をうけて、なお発行を継続

昭和20年3月、戦局が厳しくなったことにともなって、政府は「新聞非常態勢に関する暫定措置要綱」を定めた。内容は中央紙の地方発送をやめて、その分を各都道府県の県紙に吸収させて印刷発行を委託させる持分合同と、空襲に備えて予備の印刷所を設ける共同印刷。山梨日日新聞は毎日新聞を受け持った。


しかし首都では、5月25日の東京大空襲で読売報知と東京の2社が焼けて発行不能となり、この2社を含め東京で5大紙といわれる新聞の題字を一緒に入れた「共同新聞」が発行された。

空襲は大都市から地方都市にまで及び、地方の県紙も大きな被害を受けた。20年初めから終戦の8月15日までに全国で54社中、39社が戦災を受け、うち23社が全焼したといわれ。
甲府は7月6日夜、空襲で市街は一夜にして焦土と化した。山梨日日新聞社も輪転機を始め全ての機械、設備を社屋ぐるみ焼失した。万一のために石和に1台だけ輪転機を疎開させていたが、再度の戦災に備えて外郭だけ焼け残った甲府市桜町の松林軒ビル内(現中央1丁目)に移動して組み立てを急いだ。しかしすぐに間に合うわけもなく、急場を救ったのは毎日新聞との間に結んだ相互契約だった。これに基づいて毎日新聞が印刷を代行することになり、山梨日日新聞は一日も休まず発行することができた。

こんな中、山梨日日新聞は毎日、読売、朝日の題字を一緒に付けて7日に号外を出している。空襲の詳細を報ずるとともに「焦土から断乎起て!」と励ました。
混乱のうちに終戦を迎え、人々は復興に立ち上がるのだが、日本の統治権はGHQ(連合国軍総司令部)に握られた。松林軒に持ち込んだ輪転機の組み立てが完了し、自社印刷は10月に可能となたが、進駐米軍は新聞の検閲を厳しく行い、記者がたびたび県庁南別館内にあった軍政部に呼び出され、指令を受けなければならなかった。